私の生い立ちと訴え
……「狭山事件を考える市民の集い」(99年1月3日)……石川一雄
はじめに
皆さん,今日わ。愛媛県の地に来させてもらったのは,これで2度目です。今回で2度目になりました。お陰様で,仮出獄で出てから4年目になりました。5年目ですね。5年目を迎えたということで社会生活に少しつつ慣れました。今はどこにでも1人で行けるんですけど,でも二人三脚で闘っていこうという結婚当初の目的を達成しなくちゃいけないということから,2人で全国各地を訴えに回らせてもらっています。
皆さんは事件のことをある程度知っているから「石川さんは,なぜまったく字を書けないのに,今はこのように書けるようになったのか」ということを皆さんに聞いて'いただいたら,いいのじゃないか。また私の生い立ちは,どういうものであるかということもあわせて聞いて下さい。どん底の生活の中で私自身,本来生い立ちというのはなかなか触れたくない部分があるんです。まあ,早智子ちゃん(石川さんの妻)が隣でいるということで,あまり貧乏であったということで,あんな人と結婚しちゃったのかと思われちゃ困るんで。その点は言いたくないんですけど・・.。
言うのはね私の家は,まあ部落民であると同時に両親もまったく学校に行っていなかったんです。おふくろが目が見えなかったこともありますけど,親父が土方的な仕事をしていた。そのために飲まず食わずの日が相当あったし,またあぱら家で6畳一間。しかも私の記憶では4歳頃から私の家は風が吹いたら,南から大きな風が吹いたら倒れてしまうので,下側に2本。東西に1本づつ丸太を切って,倒れないように突っかいをしていた。そういった家に住んでいたというわけです。また,壁でありましたけど壁が崩れてしまって当時の進駐軍のダンボールを壁代わりにつけたんです。屋根はトタンで,雨が降る度に漏るというより降るというというのが等しく,夜なんか雨降ると,寝るとこがないために私たちは壁側に立って夜は過ごしたんです。
例えぱね。少し雨が降っても,あちこちから漏って来るために,進駐軍の空き缶を雨が潜ってくるところへ何箇所もおいて,一杯になると替えなくちゃならない。そういった,あばら家に住んでいたんです。
ですから当然,学校へも行けなかったんです。うちの妹は,4年生の時から口減らしのために農家に奉公に行かされ,私も5年生の時から奉公に行かされて17歳7カ月まで年季奉公で各地を回っていました。そういった関係でまったく字が読めなかった。
字を獲得する
でも幸いにね。幸いといっちゃおかしいですけど刑務所に,この事件で逮捕されて自分の冤罪というのがわかって,文字を取り戻したんですけど。文字を取り返す過程で私は非常に苦しく,何度か死んでしまいたいと思ったこともありました。
一審の先程ビデオに出ましたように,一審判決「死刑」とありました。それでもまだ長谷部警部との約束事を信じておりましたので,ずっ一と1ケ月間以上私は,全国の皆さんに訴えることは出来ませんでした。
幸いなことに東京拘置所に移ってから竹内景助(三鷹事件被告)さんという人と,もう1人は監守さん(刑務官)にめぐり会ったんです。その看守さんは,まだ部落解放同盟中央本部の支援を受けておりませんでしたけど,日本共産党の支援の中で『石川さんを守る会』が出来て,その人達が東京駅でビラをまいた。
それを,たまたま私を担当する刑務官がビラを拾って「ほんとに石川,無実なのか」ということで,私が東京拘置所に行くなり『守る会』の人のビラを見せてくれました。「お前はこの通り本当に無実なのか」「俺に本当のことを話してくれ,そうじゃないと残念ながらお前を無実のまま死刑執行しなければならない。俺は無実の人を執行できない」看守さんは,そのように言いました。
この看守さんに,私は胸の内をすべて聞いてもらったところ,看守さんは「面会も限られる」と言うし「国民の皆さんに訴えるには文字を獲得して,そして手紙で訴えなくちゃならない」と言いました。「石川はどうやら学校に行ってなくて,文字はまったく書けないようだから今日から俺が教師になってあげるから勉強する気があるか」ということで,私は12,3年かかって日本の文字を最終的には獲得できました。
今,ふりかえってみると,その看守さんが偉いなあと思うのは「差し当たり必要な漢字を覚えなさい」例えば私が無実を訴えるから「無実」という字が必要ですし,「裁判官」「警察官」あるいは「弁護士」「ご支援」という字が必要です。そういったものをやさしく,難しい漢字じゃなく,とにかく必要な字を先に習えということで,その看守さんが,自分で必要だと思う漢字を拾い出してこれを先に習えということから,3,4年かかってそれを先に習いました。
で,漢字を習うには書き順もあります。ですから例えば「千」という字を書くと,横に右から斜め横に,左にもっていって矢印をふる。書き順がありますから,今度は左から右に横に棒をふります。これも矢印をふります。上から下に縦の捧をふりますこれに矢印をふって書き順がありますから1,2,3と「千」という字は画数が3ありますから3必要です。ですから30あると30の矢印をふって30の番号をふる。
そのように全部の日本の漢字を看守さんは矢印をふってくれて,私に書かせてくれました。ですから,これはもう大変な作業でした。で,そのように私は矢印のように書いて完成したら,もう一つの完成した看守さんがね1字おいて,お前が書いた手とこれが合っていれば1字の千という字だから,今度はそれを音,訓をふってもらって漢字の書き取りをしました。ですから,私は漢字書き取りだけでも4年ぐらいかかったのじゃないかと思います。でも,それからが大変でした。音,訓表をふってもらって,その意味あいを会得しなければならない。漢字書き取りを教わってから今度は『広辞苑』『漢和中辞典』『机上辞典』それから,皆さんにお手紙たすには台本というのが必要ですから,どういうことを書くかということで『成年手紙法典』というのを看守さんに買ってもらったり,入れてもらったりして,勉強しました。
で,私はそういった辞典を見る中で,一番自分にとってはためになった辞典は「漢和中辞典」でありました。これは非常にわかり易く,ひらがなで大体意味合いを書いていました。ですから,これが私の台本になったわけです。
私たちは刑務官のことを先生と言うんですが,先生がね,「これがお前の頭の中にたたき込めるまでに自分の辞典にしろ。何カ月かかっても,その1冊を頭の中にたたき込め」ということで,たしか私は8カ月かかったと思うんですが,その間は一切書き物をやめて,毎日毎日そのぺ一ジを読んでいました。
8カ月かかって,やっと自分の頭に1冊の漢和中辞典をおさめることができました,そのお陰で私は,皆さんに集会・大会の度に短歌をつくるのは漢和中辞典が台本となって私に歌をつくらせてくれたのでないかと思います。非常に漢和中辞典は私に,よかったなと思いましたから,頭の中にあるけどもう1冊必要だということで,買ってずっーと持ち帰って家にも仮釈放の時に持ち帰ったんですけど,残念ながら家もろとも焼いてしまいました。
仮出獄を拒否したのは
刑務所出たんだから,大事に死ぬまで使わずにおいておこうかなと思っていたんですけど,燃えてしまってから非常に残念なんですけど,しかし私は仮出獄で出た時はたしかにこちらの皆さんにも面会していただいたこともありました。その時は,団体者の面会のために或いはメッセージの時には私は「仮出獄で出ない」と言っていました。
なぜ,仮出獄で出ないかというと私も刑務所の中で文字を取り戻すと同時に刑法総論を読みました。刑法とはどういうものか。ということで刑法総論を読んで,自分の必要なものを読んだ結果,仮出獄というものは犯罪をおかしたものしか適用されません。無実の私は適用される必要ないです。また,されるものじゃないです。その度に私は仮出獄を拒否してきました。
仮出獄して4年経ちますけど,6年前に本当は出られたんです。私が,仮出獄で出ると言えぱね。でも私は拒否したんです。それは,私の無期というと16の誓いがあるんです。その中の順守事項の2つにどうしても納得できないものがあるんです。それは社会に出たら健全な社会生活そしてもう一つは2度と悪いことはしない。これを誓いなさい。とあるんですね。16の誓いの2つに。これを誓うと,今の千葉刑務所にいた時の犯罪を認めてしまうことになる。2度と悪いことはしない。悪いことをして入ったから2度と悪いことはしない。それを誓うことになるから私は拒否したんです。
そういうことだったら出られない。ところが訓令課長さんから石川さん,無期だから場合によったら一生出られないことがあり得るよ」と言われた。その時は不屈の精神を養って同時にあれだけの無実の証拠がありましたから,私は「いいですよ。正々堂々と2,3年後には必ず冤罪を晴らして出ますから」と言いました。今回,仮出獄で出る時も,それを私の目の前に突きつけられました。
私は「前に言った通り出ない」とはっきり言いましたところ「石川さんはつかなくていいから,特例としてつかなくていいから,拇印しただけでいいから,出て下さいと言われました。でも,栂印をしただけでも所長さんの前で誓わなくても言葉で誓わなくても栂印してしまうと検察庁にまわったら,立派な証拠になってしまいます。
ですから,その二つのところだけは削除して下さい,私の手で挟みではさまして下さいと言いました。10分ぐらいして所長さんが,多分法務省と話しをしたと思うんですが「石川さんの言う通りしてもいい」となったから,私は鋏ではさみ,この二つを細かく切って捨てました。そして,繋ぎ合わせてガムテープで自分の左の親指で割印を押して,後になって証拠にならないようにきちんとやっていたんです。それでも心の葛藤があって,躊躇しました。
やはり皆さんの前にあれほど私は仮出獄では絶対出ないと。なんか兄貴が10年ぐらい前にご当地に来させてもらった時に「一雄は面会した時に仮出獄では出ない」と言っている。ご当地にお招きいただいた時にそのようなことを言ったということを早智子さんから聞きました。
早智子さんも,その時は四国の徳島ですから,こちらに来られた兄貴の話しを聞いていたんです。そのことを「お兄さんがそういうふうに言っていた」と今日,安田さんと3人と話しながら,そのことを聞きました。
ですから,私は「仮出獄で絶対出ない」というのは,そう言った誓いがあったために「出ない」ということで頑張っていたんです。今は,皆さんに出していただいて良かったなと逆に思います。
世の中の変貌に驚き
4年の経過とともに世の中がこれほど変わっていることはテレビで或いは新聞等で少しは知っていましたが,これほど変貌しているとは夢にも思わなかったです。
特に,私の家の付近は私の家の1軒だけが木造で,まわりがビルです。ですからビルの谷間に私の家が木造が1軒あっただけです。これほど変わっているとは思わなかったです。
しかも32年の拘禁生活ですから,人も変わっているのは当然なのですが,私が仮出獄した時,ご近所に私が逮捕される前に,野球を一緒にしていた友達が,結構大勢家に来て,私と握手したらしいのですが,私自身の方が全然知りませんでした。
後になってから,その人達が「石川さんが仮出獄した時は行ったよ。ありがとうと言われたよ」と言われたけれど,それでも全然わからなかったです。
みんなはわかっていたらしいんですが,私の方はわからなかったです。多くの人と握手しましたから,どれがどうだが全然わからなかった。また,自分ちの本家の人達も来たらしいのですが,それも全然わからなかった。
今は1人であちこち行けるようになってよかったですが,私の念願であった車の免許も取れたし,もう3年経過して免許の書き換えもしました。ですからこれが私の第1の夢でありました。
夜間中学に行きたい
第2の夢は結婚を除いては,やはり中学へ夜間中学に行きたいということであります。たしかに夜間中学は難しいです。この前ちらっと行ったら学校の先生が,中学の教科書を見せて下さいました。読んだら非常に難しいですね。私のレベルでは,とても卒業できないのではないいかと思うほど難しいです。たしかに日本語だったらなんとか書けますけれど,それだけではなく社会や英語など一杯ありますから,なかなか簡単には卒業できないのではと思います。
仮に私が夜間中学に通えるようになったら,4年経ては卒業は出来るのでしょうが余りいい加減な卒業はできない。皆さんにわかってしまいますから,せめて中の上ぐらいには行っていかなくちゃ,これはもういけないと思って今から一生懸命やらなくっちゃと考えています。
私は冤罪が晴れたら,部落の解放のためにあらゆる差別をなくすために闘っていかなくてはと思っています。その前にぜひ夜間中学に行かせてもらいたいなあと。そのためには皆さんにご理解してもらいたいと思います。夜間中学には絶対に行かせてもらいたいと。
私の58軒ある部落の中で,1人しか中学には行っていないのです。私の年代から上の人は。58軒ある部落の中で1人ですよ。いかに私の部落が貧困家庭が多かったことかわかってもらえると思います。大体私の年代ぐらいの人は,4年生か5年生でもう学校は行かない。で,仕事に行くか私のように口べらしのために,よその農家に奉公に行ってしまう。うちの家に私の上に兄弟は4人いますが,4人ともほとんど学校に行っていません。みんな,もう小学校1年か2年あたりで8歳か9歳で,口減らしのためによそにやらされて20歳ぐらいに家に帰ってきます。今でも兄貴も鳶職をやっていますが,おそらく兄貴も字が書けないのでないかと,そんなこと言ったら怒られるかも知れなけれどそう思います。
でもね頭の中できちんと覚えるんですね。字ができなくても,家も建てられるのです。寸法なんかも,頭の中で覚えるのですね。当然うちの親父もそうです。20キロも30キロも先のところを歩いて行くのですよ。歩いて行って,戻ってくるのです。今でも覚えているのは,帰って来る時と行く時の風景が違うから曲がったら,その角で帰りの風景を見ておくのです。そうすると,その景色で帰ってこられるのです。
行く時と帰りの景色が全然ちがうから。親父は,そのように言いました。親父まったく字が書けませんから,そのように私に言ってくれたですね。そんなこと言うだったら,親父にどのような思いをしても,こどもには学校に行かしてもらいたかったな。と。
そのために,私は親父が死んだのがいい機会で。こんなことを言うと怒られるかも知れませんが,いい機会だということで87歳で天寿をまっとうしたんですが,私は別れの挨拶の中で苦言を呈しました。「せめて学校に行かせてもらいたかったなあ」と。或いはね。「部落民ということを教えてもらいたかったなあ」と。私は親父にもお袋にも,そのことを言いたかった。
部落民ゆえのいじめ
私が小さい頃,私たちの村は58軒しかありません。あとは一切,一般の人は入って来ない。私たちの家から'小学校まで直線で300メートルあるんです。で,もう踏切りを渡ると地区外です。踏切りの向こうの地区外の大きな人達,中学生或いは高校生もいたと思いますが,私たち部落民を地区内に来させないために棒切れをもって待っているんです。
私たちを通らせまいとして。怖いからそのために2キロも遠回りして裏門から学校に行きました。直線で行けば300メートルなのに,2キロも遠回りして学校に行ったんです。そのことを親父やお袋にその都度話しました。「あそこの踏切りの連中は,棒切れもって怖いから,石を投げられるから行けないよ」と言ったら,親父たちは「怖いのだったら,もう学校に行くな」と言って,部落民ということを教えてくれなかったんです。
その時,教えてくれたら,ちがった意味で成長してこんな事件に巻き込まれずに済んだかも知れないと思うんです。ですから,自分が字を取り戻して「部落の歴史」という本を読んで初めて,小さい頃このようにいじめを受けたのは,「自分が部落民であったからだ」ということがわかったんです。
苦しかった生活
また,生活においてもそうです。親父は1人で土方的な仕事ですから,毎日日払いで120円の日当をもらってくるんですね。帰りは,必ずうどん6把買って帰るんです。1把20円ですから。それで若い時は生活していました。
でも土方ですから雨が降る時は,仕事がありません。2日間はなんとかなるんですが,私より上は兄貴も姉ちゃんも全部奉公に行っていなかったです。私の他に大体5人ぐらいこどもがいたですね。5人で両親合わせて7人の家族です。7人で2日間は6把のうどんで,なんとかなっていました。でも3日雨が降ると食べるものはありません。夏は,小さいから,よその農家の西瓜とかトマトとかきゅうりなど盗んで飢えをしのぐことが出来ました。親父らはそういうことが出来ませんから,「はこべ」とか「のびろ」とか「あがた」とかを取っ食べていました。
冬はどうしたかというと,冬は作物を盗むことはできません。できませんから鶏餌を買うんです。20円買うと南京袋一杯くるんです。それを私たちは食べるんです。冬は。鶏のえさですから,もうすでに生卵の殻がまじっているんです。まさか私たちが食べるとは思わないから,地区外で売ってくれる鶏のえさにも生卵の殻がまじっているんです。それを私たちは主食として食べるんです。ですから生卵の殻ですから煮ても焼いても柔らかくなりません。噛むと舌にあたってしまう。歯茎に刺さってしまう。ですから,それをノドに流し込んで噛まずに食べる。冬は全部そういった生活を5年間。5年間というか子守奉公に出されたのが12歳ですから,大体5歳ぐらいから,そういった記憶があるんですね。冬は全部ほとんどそういった生活を強いられました。
それでも最初に子守奉公に出されたところは,自分の家から7キロくらい。今か言えば近いのですが,5年生だから小さいから,うんと遠くに感じました。そんな貧しい生活でありながら,父ちゃん母ちゃんが恋しくて私は逃げて帰ってきました。幸いなことに,私の村の近くがジョンソン基地で,夜になると大きな電灯が空向かって照っていまして,それを目当てに私は逃げて帰ってきました。
ところが,うちの親は奉公先から年期奉公だから先取りしていたんです。まあ5年生ぐらいですから,1年働いて千円ぐらいにしかならなかった。そんな千円の金でも先取りしていたんです。ですから,私が逃げて帰っても金が返すことが出来ないからまた,そこに連れ戻された。そこで1年働いて,次のところに1年。漬物屋に1年,農家に1年。転々として17歳7ケ月。私はこういうしみだけは絶対させない,もし仮に早く出て,こどもができたとしたら,こどもにだけはこんなことはさせないと思いました。
こども達の手紙を支えに
私は,もう60歳ですから,こどもはできませんけど,私には全国のこども達がいますから,自分のこどもとして全国にいますから,その必要はありませんけれど,やはり親というものは,自分のこどもには,しっかり勉強させなければと常々思いました。
たしかに,私は32年の間に全国から48万通ちょっとの激励の手紙をいただきました。その3分の1は,幼稚園・小学校・中学生のお子さん達で占めています。今,頭は禿げていますけど,でも刑務所に私は4年前までいたんですけど,お子さん達は頭が禿げておじいちゃんになっていることを知りません。昔の逮捕された当時の写真を見せられていますから「お兄ちゃん」と激励の手紙がくるんです。
恥ずかしかったですね。お兄ちゃんと言われて,頭禿げていて皆さんどう思ったかと思いましたからね。でも,私は「お兄ちゃん」ということに非常に感動させられました。この人達を裏切ったらいけないと思いました。こども達のためにも元気で闘っていかなくちゃならないなということで,私は32年間不屈の闘志で闘ってこられたんです。
文字獲得のために糖尿病に
また,刑務所の中で「幸いなこと」というかどうかわかりませんけど糖尿病になりました。それは勉強するために12,3年一切運動に出なかったんです。文字を獲得しなければならない,自分は殺されちまうんだ。差別裁判を闘っていこう,全国の皆さんに自分がこういった部落民である。だから犯人にデッチ上げられたんだということを知らせるために,まず文字を取り戻すことが先決だということから,皆さんに訴える手紙を書けるまでは,一切運動にでなかったんです。
そのために体重が72Kになってしまったんです。今は46Kです。ずう一と72Kで,運動に出なかったために糖尿病になって1年間苦しんだんです。そして,自分でカロリー計算して,これではたとえ刑務所にいても2食にしよう。刑務所では1日のカロリーが3300カロリーです。これだけ食べていたら,私は健康な元気な体で出られないということから,たしかに最初はつらかったです。重労働でありますから肉体労働でありますから,3ケ月間はつらかったです。人の食べているのをず一と我慢して見ているんですから。昼の時は。
朝・晩は,自分の部屋で食べますけどが,昼は工場の人達と一緒に食べるんです。私は食べないから,皆さんが食べるのをじっ一と見ているのです。これほどつらいことはありませんでした。でも3ケ月ぐらい経ったら,慣れてきて,それから今でもずっ一と2食です。ずっ一と続けています。
それから肉や魚はほとんど食べません。これは,私はもともと魚はきらいですけど肉は好きなんですが,カロリー計算が出来ない。ところによっては脂身が多いところがあります。ところによっては,脂身のないところがあります。カロリーが違ってきます。私は2000カロリーを越えない程度に今はわかりますから見て,2000カロリーを越えない程度にということで,ずっ一とそのように来ましたら,今は46K上下しています。
例えば,1週間そこら全国各地をまわると運動ができません。出来ませんから,どうしても48Kぐらいになります。そうすると私は絶食します。46Kになるまで。それが私の今のベストなのです。出た(仮釈放)時は52Kでしたが,それから絞りましたから…。私は今年の1月14日に60歳になりました。でも,年は60歳でも40台でも通用すると自分でもそのように思っていますし,体力的にもそのような体力が維持できていると思います。
これはね。これでお終いじゃないんです。皆さんに,冤罪が晴れたら少しでも恩返しが出来たらということで,私はそれにはなによりも健康が大事だ。そして皆さんには,裁判以上のことはご迷惑をかけないと言っていましたので,それには早智子ちゃんと結婚しても自己管理は,内も外も同じだということで,今も外に出ていても自己管理ということで,ほとんど今は麺類を食べています。安田さんには気の毒だと思いますが,今日一緒に来られた安田さんとは時々全国各地を行く時があります。いろいろなご馳走が出る時があります。私はうどんしか食べません,麺類以外は食べませんと言うんです。安田さんは,付き合わなくちゃならない時があるんです。(笑い)
それは,申し訳ないと思うんです。最近は安田さんも慣れたせいか「今日はうどんだね」と安田さんの方が言うんです。これは有り難いなと思う時があります。心の中では申し訳ないと思っているんですけど。安田さんも10何年か私のために一生懸命やってくれているから,心の中では申し訳ないと思っても,自分の健康維持のために,お付き合いしてくれているのだから,いいことだなあと。隣にいる早智子さんは結婚してから7kも太っちゃたった。どういうわけかと聞きたいのですが,それ以上は言いません。
でも二人三脚で闘っていくのだから,なんとか自分の体を気をつけてもらいたいなあと。今はいいんです,若いから。あと20年30年経った時に,果たして私のように元気でいられるかと思ったら,やはり7kの重さは相当こたえると思います。(笑い)靴が泣くんじゃないかと思います。それはまあいいでしょう。本人がいいと言うんですから。
ただ,いつも健康を心配しているんです。二人三脚でかたわらになっては私1人では寂しいですから。もう一緒に闘って出来たら,80歳か親父が生きていたのは87歳でしたから,あと27年間は元気で現役で皆さんの先頭に立って,闘っていきたいと思いますので,それには脇に早智子さんがいてもらはなくては困るわけです。
早智子ちゃんには健康に気をつけてもらいたいなと。皆さんには冤罪が晴れたら,ご期待に沿うように,私も本当に死に物狂いで一生部落解放のために,また色々差別がありますので,差別をなくすために勉強して,闘っていきたいと思います。
今も目に見えぬ手錠が…
ぜひ高木裁判長のあいだに冤罪を晴らしていきたいなあと。私は高木裁判長が良い裁判長だなあと思ったのは,いろいろありましたけれど最終的に高木裁判長はこう質問してきました。それは「石川さん,今なにをして食べていますか」と言ってきたんですね。たしかに,私は仮出獄の時に認知事項の中に「社会に出たらきまった職に就くこと」がありましたので,高木裁判長もこれを知っていたと思うんです。そのために「石川さん,何をして食べているんですか」と聞かれたので「現在は残念ながら58歳でなかなか雇ってくれないけれど,その上に『殺人犯』というレッテルを貼られているために,なかなか決まった職に就けません」と答えました。
というのは,読み書きが出来るようになったので,職業安定所に紹介されて二つの会社に行ったのです。二つとも面談のおりは,採用と言ったのです。次,来る時は履歴書をもってきて下さいと言うので私は,たしかに履歴書を書いてもっていきました。しかし,32年間という空白があります。それを埋めることは出来ません。ウソのことを書くことは出来ませんけど,後になってから法務省の方でわかったら私は再収監されるのです。ウソのことを話しちゃならいけないんです。
ですから空白のままで行ったところが,人事課長さんは両方の会社とも「石川さん,32年間何をしていたのですか」と聞かれたので,その時初めて「63年に起きた狭山事件の犯人にされて獄中生活を余儀なくされていました」と言ったら,途端に態度が変わってしまい,履歴書もってきたら採用と言っておきながら「採用か不採用かは電話で連絡するから」と言って,電話は来ましたが「不採用」の電話でありました。
そのことを私は,高木裁判長に強調して訴えました。高木裁判長は「今は仕事をしていないわけですね」と言うので「いや,今は徳島の人と結婚して(本人に怒られるけど,そのことは言わないよね)早智子さんに食べさせてもらっています。これからも冤罪が晴れるまでは自分が食べられる範囲で全国各地を訴えてまいっています。ですから,1日も早く高木裁判長さまも私の冤罪を晴らしてくださるように法廷の場を開いて下さい」最後にはそのようにお願いしました。
高木裁判長も「石川さんのいう主旨はよく承りました」と言ってくれたので,私は現在の高木裁判長に非常に期待していますし,またやってくれるものと確信しつつも,やはり寺尾判決(*東京高裁で無期懲役の有罪判決を下した裁判長)のように,どんでん返しの有罪判決が出ましたので,私も今はむしろ危機感もって訴えなくてはいけないなあという思いで,全国各地を回らしてもらっています。どうか皆さんも今まで以上にご支援を賜りますように心からお願いして簡単ですが,私のご挨拶とします。今日は本当にありがとうございました。(拍手)