戦 時 標 語

 

戦意高揚・生活統制・精神動員のための戦時標語。日中戦争開始後、国民精神総動員運動が展開され、「挙国一致」「尽忠(じんちゅう=忠義を尽くすこと)報国」「堅忍(けんにん=じっと耐えること)持久(じきゅう=長く持ちこたえること)」の標語を一つずつ大書したチラシが各戸に配られた。

 

1940(昭和15)年日中戦争の長期化による物資不足が深刻になると、国民精神総動員本部は国民生活のあり方を規制する「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈(はず)だ!」「ぜいたくは敵だ!」「パーマネントはやめませう」などの標語をつくり、街頭に看板をたてた。

 

同年2月の紀元2600年祝賀式典の前には「祝へ元気に朗らかに」、式典後は「祝ひ終った、さあ働かう」のポスターがはりだされた。

 

そして41(昭和16)年には「生めよ殖やせよ国のため」も登場した。

 

太平洋戦争が始まると大政翼賛会による標語の募集も始まり、「進め一億火の玉だ」「屠(ほう)れ!米英我等の敵だ」(41年)、「欲しがりません勝つまでは」「さあ2年目も勝ち抜くぞ」(42年)といった戦意高揚の標語が選定され、町内・職場に掲示された。

 

43年には決戦標語として「撃ちてし止まむ」が採用され、4月に連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死すると(公表は5月)「元帥の仇は増産で(討て)がスローガンとなった。

 

戦局の悪化にともない44年には厭戦(えんせん=戦争を嫌うこと)気分を吹き飛ばそうと「鬼畜米英」が、敗戦直前には本土決戦方針にもとづいて「一億玉砕」「神州不滅」など悲壮なものが作られた。

 

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欲しがりません勝つまでは

 

太平洋戦争開戦1周年に、大政翼賛会と朝日・東京日日(現毎日)・読売の3紙が公募した「国民決意の標語」の入選10の中の一つで1942(昭和17)年11月27日に発表され、当時最も有名になった。

 

戦争の長期化と戦線での敗北による物資不足は日に日に深刻になっていったが、このキャッチコピー(スローガン)は国民に我慢の(耐乏)生活を強いる格好の標語(合言葉)になった。

 

なお、入選当時、小学校5年生の作品として話題になり、スローガンとしてよりいっそうの効果を発揮したが、戦後父親の代作であることが判明した。

 

入選作は、この他に「さあ二年目も勝ち抜くぞ」「たつた今!笑って散った友もある」「ここも戦場だ」「頑張れ!適も必死だ」「すべてを戦場へ」「その手ゆるめば戦力にぶる」「今日も決戦明日も決戦」「理窟言う間に一仕事」「『足らぬ足らぬは』工夫が足らぬ」などがあった。

 

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鬼 畜 米 英

 

敗戦が濃厚になった1944(昭和19)年ごろ国民の間にもようやく厭戦(えんせんー戦争を嫌うこと)気分が出てきだした。

 

そこで政府は戦争継続体制維持のために米英に対する敵愾心(てきがいしんー相手に対する憤りや闘争心)を国民に喚起し、戦争に奮い立たせる方策の一環として、かようなスローガンが意図的に広めたのである。戦時標語の一つである。

 

44年8月3日マリアナ諸島のサイパン・テニアン島は陥落(守備隊玉砕)したが、翌日の新聞各紙は、米兵が戦死した日本兵の頭蓋骨を子供の玩具にしていると報じるとともに、米英にケモノヘンを付けてと表現した。

 

このほか、敗戦直前には本土決戦方針に基づいて「一億玉砕」「神州不滅」などの悲壮にして無意味で残酷なスローガンが作られ広められた。

 

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