広田弘毅(ひろたこうき)

1878(明治11)年2月14日〜1949(昭和24)年12月23日
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明治〜昭和時代前期にかけてのエリート外務官僚・政治家。1933(昭和8)年9月に外相、2・26(ににろく)事件直後の1936(昭和11)年3月に首相に就任。 近衛内閣で再度外相に就いた直後の1937年7月、日中戦争の口実となる蘆溝橋事件(「7・7事変」)が発生、日中戦争突入を防止できなかった。 敗戦後、東京裁判に起訴され、48年12月、東条英機元首相ら他の6人のA級戦犯とともに、ただ一人の文官(官吏のうち、軍事以外の行政事務を取り扱う者。文民の官吏の旧称⇔武官)として巣鴨拘置所(巣鴨プリズン【旧東京拘置所】)で処刑された。 |
1878(明治11)年2月14日生まれ福岡県の貧しい石屋の子供として生まれた。1881(明治14)年、自由民権運動の一つの担い手発足したが、後に右傾化した頭山満(とうやまみつる=1855〜1944。福岡生まれの国家主義者。萩の乱に参加して入獄後、自由民権運動に参加下の後、国家主義に転じて大アジア主義を唱えて大陸進出に暗躍し、黒竜会・大陸浪人などを支配する右翼の巨頭的存在となった)を中心とする右翼団体の「玄洋社(げんようしゃ)」(1946年解散)に若いときに出入りし、影響を受ける(広田は、頭山の葬儀委員長となる)。

写真真ん中頭山満(左は中野正剛)=1943年1月
東京帝国大学法科卒業後、外務省に入り、欧米局長、駐オランダ公使を務め、1930(昭和5)年に駐ソ大使となる。
1933年9月斎藤実(まこと)内閣の内田康哉(やすや)外相が辞任後、後任の外相に就任、「満州国」の発達完成、「外侮を蒙(こうむ)ることなき」程度の軍事力の充実、外交手段による方針の貫徹などを内容とする新しい外交方針を決定した首相・外相・陸相・海相・蔵相の「5相会議」に参加した。
翌34年、岡田啓介(けいすけ)内閣にも外相として留任し、「協和外交」を唱えて1935年中国との大使交換を実現する一方、排日停止、「満州国」承認、共同防共を中国に要求する広田3原則を決定する等、中国侵略のために奔走した。
1936年に勃発した2・26(ににろく)事件後、近衛文麿(このえふみまろ)が組閣を辞退したため、天皇は広田に組閣を命じた。だが、組閣は難航した。陸軍の露骨な組閣干渉のためである。陸軍は、吉田茂(戦後の総理大臣)の外務大臣、下村宏(しもむらひろし)の拓務(たくむ)大臣(日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を所管した拓務省の長)、川崎卓吉(たくきち)の内務大臣への就任に反対するのである。結局、広田は軍部の干渉を排除できずに要求を受け入れたため、広田内閣は軍部追随内閣としての性格が強まる結果となった。
広田内閣は、「庶政一新」をキャッチコピーとしたが、その内実は軍事力の拡大施策の遂行であった。すなわち、広田内閣は、軍部の要求に屈して1936年5月に軍部大臣現役武官制を復活させるばかりか、翌月の6月8日には、仮想敵国をこれまでの米・ソに英・中を加え、4カ国とする「帝国国防方針・用兵綱領」の第3次改定を行った結果、膨大な陸海軍拡張計画を実行することになり、8月には「国策の基準」を決定、陸軍の中国大陸進出と海軍の南方進出のそれぞれの要求をのむこととなる。
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第32代廣田弘毅内閣総理大臣の第70回帝国議会(通常会)施政方針演説(衆議院;1932年1月21日) (抜粋)
諸君、茲に昭和12年の新春を迎へ、我が皇室の御隆昌を拜しますることは、我等國民の齊しく慶賀し奉る所でございます 殊に 聖上陛下には天機彌々御麗はしく、玉體益々御健かに渉らせられ、帝國の隆盛、國民の福祉と世界の平和との爲に日夜御宸念あらせ給ふことは、洵に恐懼に堪へぬ次第でございます
本日、此新議事堂に於て政府の所信を披瀝し、諸君と共に洪猷輔翼の重責を竭し、國運の進暢を圖りますることは、私の最も光榮とする所であります
帝國は正を執り邪を斥け、萬邦協和、共存共榮、以て世界の恆久的平和確立に寄與することを其使命と致すのであります、皇室の御稜威と國民の勵精努力とに依り、國力は愈々充實し、國際的地位は益々向上して、有ゆる方面に於て躍進を續け、我が高遠なる使命達成に向って進みつヽあることは、洵に御同慶に堪へぬ所であります
併ながら熟々帝國内外の情勢を稽へまするに、一方國内的には思想、國防、産業、經濟、財政、教育其他幾多の問題を控へ、他方世界の現状は混沌たる状態に在り、帝國を繞る國際政局は愈々機微を加へ、各種の對外問題は益々複雑化しつつある状況でありまして、帝國の前途には幾多の難關あるを覺悟せねばならぬと存ずるのであります、是等の難關を排して我が國運の進暢を期せんが爲には、外に向っては克く帝國の崇高なる使命を世界に宣揚して正しき認識を深め、内に於ては諸般の施設經營の徹底を期して庶政一新の實を擧げ、以て國力の充實を圖らねばなりませぬ、而して其根本は光輝ある國體觀念を愈々明徴にし、内外諸般の方策をして總て之に朝宗せしめ、又國民精神を振作し、我が皇室を中心として、國民一致團結不退轉の決意を以て、淬礪の誠を輸すに在りと考ふるのであります、是れ即ち政府が邦家興新の聖謨を翼贊し奉るの基調を爲すものであります
帝國外交の方針は、前述致しましたる帝國の使命に則り、終始一貫渝らざる所であります、政府は右根本方針に基き、滿洲國との特殊不可分の關係を益々強化して、東亞の安定勢力たるの地位を確保し、又東亞永遠の平和を維持するの大局的見地より、日支兩國の國交を調整するの肝要なるを信じ、善隣協調和親の實を擧げんと努力しつヽあるのであります
帝國政府は我が尊嚴なる國體に悖り、且つ人類の福祉を害する共産主義的活動に對しては、嚴重なる取締を爲し來ったのでありますが、所謂コミンテルンの危險性は近來益々増大の兆候あり、其國際的赤化宣傳工作は、愈々巧妙深刻となりつヽある情勢に鑑みまして、國際的協力に依る防衞の必要を痛感し、今囘先づ對コミンテルン關係に於て、我邦と立場を同じくする獨逸との間に、防共協定の締結を見るに至ったのであります、帝國政府としては日蘇關係の調整は依然之を重視し、大に努力致して居りますし、又對英、對米の親善關係も益々敦厚ならしむるの決意を有する次第でありまして、國際信義に立脚し列國との交誼を敦くするは言を俟たざる所であります
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さらに広田内閣は、対中政策の基本方針を定めた「帝国外交方針」や第2次北支処理要綱」及び「対支実行策」等の決定により、1935年から日本の関東軍と天津軍が強引に推進してきた、日本が華北5省(河北、山東、山西、チャハル、綏遠【すいえん】)を中国国民政府から引き離して日本の支配におこうとする「北支分治(華北分離)政策」を公式の国策として承認する(1936年8月に定められた「昭和12年度帝国陸軍作戦計画」は、この新しい方針の下で作成された最初の年度作戦計画とあった。なお、この政策は失敗し、そのまま日中戦争に突入した)ばかりか、1936年11月25日には、日本とドイツがソ連を中心とするコミンテルン(共産主義国際組織)への対抗措置を定めた上に、秘密協定とされた付属議定書でソ連を仮想敵国とした「日独防共協定」(翌37年はイタリアの参加により「日独伊3国防共協定」に発展する)を締結した。
その結果、広田内閣は、中国やアメリカ、イギリスとの対立をさらに深刻化させ、同時に、1936年11月の綏遠(すいえん)事件(関東軍の援助により綏遠省に侵入した内蒙古軍が、傅作儀【ふさくぎ】の率いる中国軍に撃退された事件で、これで中国の抗日世論は高まった)、同年12月の西安(せいあん)事件(対共産軍作戦督促のため西安に飛来した蒋介石を、内戦停止・抗日戦などを要求する張学良【張作霖の長男】らが監禁した事件。周恩来の調停により蒋は釈放され、これを契機に第2次国共合作による抗日民族統一戦線が結成されたが、以後張学良は軟禁状態となった)等で対中国政策も破綻(はたん)した。
1937(昭和12)年度の予算案では軍事費調達の大増税と赤字公債増発を計画したことから、軍需インフレの発生を恐れた既成政党や財界等との対立が深まる。
そうした中、1937年1月の浜田国松の「腹切り問答」をきっかけとする軍部と政党の対立が激化、同月23日広田内閣は総辞職を余儀なくされた(2月2日林銑十郎【せんじゅうろう】内閣が成立)。
同年6月発足の第1次近衛内閣では再び外相となり、日中戦争を迎えたが、戦争の拡大に反対せず、翌年1月16日の「爾後(じご=以後)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」「新興支那政府ノ成立発展ヲ期待」との強硬方針(第1次近衛声明)の決定に参画、軍部に追随して日中戦争を泥沼化させた。
1940年以降、重臣会議(1932年の5・15【ごういちごう】事件後、元老西園寺公望の示唆によって、内大臣・枢密院議長・総理大臣経験者などを集めて設けた会議で、後継首相の選任や国家の大事について影響力を発揮した。戦後廃止)の一員となり、首相推薦等に関与する。
1945年には、戦争終結のためソ連の仲介を求めて広田・マリク(駐日大使)会談を行ったが失敗した。
敗戦後A級戦犯容疑者とされ、1948(昭和23)年11月東京裁判(極東国際軍事裁判)で、外相当時に起きた37年12月からの南京大虐殺の残虐行為を止めるよう閣議で主張しなかった「不作為の責任」などが問われ、文官中ただ1人絞首刑の判決(軍部の圧力を受けつつ終始戦争に反対していたとの評価も一部にあり、現に、東京裁判においてオランダのレーリンク判事は「軍事的な侵略を提唱した日本国内の有力な一派に賛同しなかった」などとして、元首相の無罪を主張する意見書を出している)を受け、同年12月23日刑死した(静子夫人は1946年2月11日に東京裁判傍聴、その翌日朝、藤沢市鵠沼【くげぬま】松が岡の別荘で自ら命を絶つ)。
享年71歳。
なお、靖国神社は、広田家の遺族の合意を得ずに、東条英機元首相らA級戦犯を合祀(ごうし)しているが、このことについて、弘毅の孫の元会社役員(67)は、「広田家として合祀に合意した覚えはないと考えている」と、元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした。また1955年4月、旧厚生省は横浜で火葬されたA級戦犯7人の遺灰を各遺族に引き渡そうとしたが、広田家だけは受け取らなかった。広田家の菩提(ぼだい)寺は故郷の福岡にあるが、遺族は元首相の遺髪を分けて鎌倉の寺に納め、参拝している(06年07月27日付『朝日新聞』)。