広島平和公園−嵐の中の母子像

 

動画

 

1949(昭和24)年8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、平和記念施設として1954年4月1日に完成した平和公園(面積は約122,100平方メートル/約37,000坪)

 

設計は、丹下健三東大助教授(当時)ほか3名の共同作品で、設計競技による145点の中から入選したもの。公園の南端には、広島平和記念資料館(東館・本館)と並んで、広島国際会議場がある。

 

平和公園は、本川と元安川とにはさまれた中州(かつての広島・中島地区)で、江戸時代から陸海の交通の要衝として栄え、明治になると、市庁舎、県庁舎のほか、広島の物流の拠点となるなど、政治・行政・商業の中心となった。

 

1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めてB−29により原爆が投下されたが、当時の住民は、6,500人と推定されている。

 

地区の住民はもとより、当時この付近で建物疎開作業に従事していた多くの国民義勇隊や動員学徒が非業の死を遂げ、街並みも一瞬のうちに消え去った。

 

 SANY0036.jpg

 

Image2-1.jpg

 

右手に乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみの姿勢で生き抜こうとする母の姿

 

Image1.jpg

 

SANY0037.jpg

 

設計者は、立命館大学の戦没学生記念像「わだつみ像」などの作品で有名な本郷新(ほんごうしん=1905〜1980。北海道生まれの彫刻家。高村光太郎に師事。新制作派協会彫刻部創設に参加

 

1959(昭和34)年8月2日、広島市長主催の原水爆禁止世界大会外国人レセプションが開かれた席上、「原水禁運動に対し厳しい嵐が吹いているだけに、こうして広島市長がレセプションを催して下さったことに感謝する」と挨拶した安井郁(かおる=1907〜1980。大阪府生まれの昭和時代の国際法学者。法政大学教授。第5福竜丸事件を契機に、杉並の主婦を基盤に原水爆禁止署名運動を組織化し、原水協初代理事長となる。主要著作に「国際法学と弁証法」などがある)大会議長から浜井信三(1905〜1968。広島生まれの昭和時代後期の政治家。1945年広島市配給課長のとき被爆。1947年公選による初代広島市長となり、毎年8月6日に平和式典と慰霊祭をおこない核兵器禁止をうったえる。1950年平和記念公園を建設、1966年原爆ドームの永久保存運動をおこした広島市長に贈られたのが、石こうで作られた「嵐の中の母子像」。第5回原水禁広島大会を記念して、日本原水協が広島市民にプレゼントしたもである(市長は、「原水禁大会が広島で開かれることは光栄である8月のキラキラ輝く空をみると、われわれ広島市民はあの日のことを思い出す。再び過ちを犯してはならない。原水禁運動にもいろんな問題があり、批判は謙虚にきくが、究極は原水爆がこの世からなくなるようにしなければならない」と返礼の挨拶をした)

 

その後、広島市婦人会連合会(現広島市地域女性団体連合会)の母親たちが募金を集め、1960年、ブロンズ像に鋳造して建立した。

 

SANY0039.jpg

 

SANY0035.jpg

 

 SANY0040.jpg

嵐の中の母子像の背後に作られた噴水「祈りの泉」

1964(昭和39)年11月に廣島銀行が建設して広島市に寄贈した、「水を水を」といって亡くなった人々の靈に捧げるこの噴水は、東西27メートル、南北19メートルの長円形、567本の噴水口から毎分11トンの水を高さ10メートルまで吹き上げる。

SANY0041.jpg

 

SANY0013.jpg

 

SANY0416.jpg

 

SANY0417.jpg

 

SANY0418.jpg

 

SANY0014.jpg

 

SANY0016.jpg

  

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/gennbakudomu.files/image003.gif

 

原爆投下目標選定委員会

リトルボーイ

ファットマン

原爆ドーム写真集

千羽鶴

原爆の子写真集

峠 三吉

トップページ

目次

歴史のページ