平家物語

 

 

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり。

沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
(おご)れる人も久しからず 唯(ただ)春の夜の夢のごとし。
(たけ)き者も遂には亡(ほろ)びぬ 偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ

遠く異朝(いちょう)をとぶらへ(え)ば、秦(しん)の趙高(ちょうこう)・漢(かん)の王莽(おうもう)・梁(りょう)の周伊(しゅうい)・唐(とう)の禄山(ろくさん)、是(これ)等は皆旧主先皇(きゅうしゅせんこう)の政(まつりごと)にしたがは(わ)ず、楽しみをきは(わ)め、諫(いましめ)をも思ひいれず、天下の乱れむ(ん)事をさとらずして、民間の愁(うれ)(う)る所を知らざッしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。

近く本朝をうかがふ(う)に、承平(しょうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和(こうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいじ)の信頼(のぶより)、是等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まじかくは六波羅(ろくはら)の入道(にゅうどう)(さきの)太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)(たいら)朝臣(あっそん・あそん)清盛公(きよもりこう)と申しし人の有様(ありさま)、伝へ(え)(うけたまわ)るこそ、心も詞(ことば)も及ばれね

 

 

備考:解説は『大辞林』から引用

1.祇園精舎==⇒須達(しゆだつ)長者が釈迦とその弟子に寄進した寺で、中インドの舎衛(しやえ)城の南に旧跡がある。もと祇陀(ぎだ)太子の林園で、須達長者を給孤独(ぎつこどく)とも呼んだことから、祇樹給孤独園、略して祇園という。

2.諸行無常==⇒仏教の基本的教義である三法印(さんぼういん仏教の思想を特徴づける三つの基本的な主張。諸行無常・諸法無我・涅槃(ねはん)寂静の三つ)の一で、この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないことを意味する。

3.沙羅双樹==⇒インドのクシナガラ城外、娑羅(ナツツバキの異名)の林の中、釈迦の病床の四方に2本ずつ相対して生えていたといわれる娑羅の木で、釈迦が入滅I(にゅうめつ=釈迦・菩薩・高僧などが死ぬこと)した時、鶴のように白く枯れたと伝えられる。

4.朝臣==⇒三位以上の人の姓の下、四位の人の名の下に付けて敬意を表すことば。

5.六波羅==⇒六波羅蜜寺がある現在の京都市東山区松原通り付近の地名で平安末期には平清盛はじめ平氏一門の邸宅が並び、平氏政権の中心地となっていた。

6.太政大臣==⇒律令時代の太政官を総括する最高の官職。

7.入道==⇒皇族や三位以上の貴族で仏門にはいった者の称で、武士を含め僧体でありながら、在俗(ざいぞく=出家せずに俗人のままでいること)の者をもいった。

 

口語要約

 

この世に永遠なるものなどございましょうか。世の中はたえず変わっていくものであります。そのように祇園精舎の鐘は響いています。権勢(けんせい)を誇る者もやがては滅んでゆきます。ましてや贅沢三昧(ぜいたくざんまい)に酒色(しゅしょく)に夢中になる者のそうした人生は長く続かないものです。それはまったく道理(もっともな事)であり、春の一夜の夢と同じです。まさに風に漂う塵のようなものであります。

外国の朝廷をみれば、秦(中国最初の統一王朝。始皇帝の時、6国を滅ぼして前221年に天下を統一したが、前207年代に3代15年で滅んだ)の趙高(始皇帝の死にあたり遺言を偽造し、始皇帝の長子扶蘇〔ふそ〕と将軍蒙恬〔もうてん〕を死罪とし、末子胡亥〔こがい〕を2世皇帝に立て、院政をしいて圧政を行ない、胡亥をも自殺に追いやったが、次に擁立した子嬰に殺された)、漢(中国の王朝名)の王莽(中国、前漢末の政治家)、梁(戦国時代の魏〔ぎ〕が紀元前362年に大梁〔今の開封〕に遷都して以後の中国の国号)、唐(中国の統一王朝〔618〜907〕)、前代・先代の天皇(君主)に政治に従わないで、酒色にふけり、人民をことを省みず、周りの人々の誡めに耳をかさず、人心が離れ、国が乱れていること分からず、結局滅びてしまいました。

近くは日本を見れば、承平の乱で平将門(平安中期の武将で、所領争いなどから叔父国香を殺し、一族との抗争を招く)が世を乱し、天慶(938〜947−承平の後、天暦の前の朱雀〔すざく〕・村上天皇の代)の純友、康和(1099〜1104−承徳の後、長治の前で堀河天皇の代)の義親、平治(1159〜1160−保元の後、永暦の前で二条天皇の代)信頼など、傲慢な心や荒々しい行動は、いろいろさまざまでありました。

最近の清盛という者も奢りや高ぶり、そしてその圧政は想像できないほどで、筆舌につくしがたいほどに凄まじいものでございました。

 

平家物語

 

『平家物語』(全12巻)は、3部構成で、第1部は、権力を掌中に収めた平清盛を中心とする平家隆盛の様子、第2部は、平家討伐の旗揚げをした源頼朝、木曽義仲(平家討伐)軍と平家軍との合戦模様、第3部は、平家滅亡後の戦後処理としての苛酷な運命を辿る人間模様が描かれている(なお、既存する「平家物語」には全12巻の跡に潅頂巻1巻が加えられている)。

『平家物語』は、琵琶法師によって語り継がれた「語り物」で、時代を通して伝承された。そのため多数の異本が残っている。平家物語が扱う時代は12世紀の約60年間で、平家一族の勃興、隆盛、極盛、瞬く間の滅亡の歴史が説話的に描かれている。琵琶法師による語り物であったため、文字が読めない庶民から貴族まで、広い範囲で鑑賞された。

 

平家物語解説

 

平家物語の内容は、以下の通りである(なお、平家は桓武天皇〔かんむてんのう==737〜806−第50代天皇〔在位 781〜806〕。名は山部〔やまのべ〕。光仁天皇の皇子。794年に都を平安京に遷した。在位中に坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方に派遣するなど、朝廷権力を大きく伸長させた〕の子孫といわれる)。

 

800年位前(平安末期)に権勢を誇った武士が白河法皇の「ご落胤」とも伝えられる平清盛(1118〜1181)であるが、清盛は父忠盛の地位と遺産を受け継ぐとともに、娘徳子(とくこ)を高倉天皇に入内(じゅだい皇后・中宮・女御となる女性が正式に宮中に入ること)させて天皇家と縁を持ち、官職を一門で独占、保元・平治の乱により対立勢力を一掃した後、知行(ちぎょう)30余国に及ぶ平家政権を樹立する等、時の権力者(従一位太政大臣)として君臨し、圧政をほしいまました。当然、清盛に反抗する武士も存在し、清盛打倒に動くがその都度、密告等により弾圧される。

その清盛を戒めたのが、清盛の長男重盛(しげもり=性格が温厚で、道理を重んじたため人望があった)であったが、重盛は、清盛の娘建礼門院徳子(1155〜1213−けんれいもんいんとくこ)の子(清盛の孫)の安徳天皇(1178〜1185−高倉天皇の皇子で若干2歳にて即位した第81代天皇(在位 11801185)。名は言仁〔ときひと〕)の誕生と時を同じくして他界する。

重盛亡き後、もはや清盛の暴政を抑制する人はおらず、清盛は意に沿わない多くの公卿を更迭し、法皇(ほうおう=出家した上皇〔じょうこう=天皇が譲位後に受ける尊称の称〕)まで軟禁してしまうのであった。

 反清盛勢力として、唯一都に残っていたのが、源氏の源頼政であるが、頼政は1180年、以仁王(もちひとおう=1151〜1180−後白河天皇の第3皇子)を担いで反乱を企てるが、計画が事前に発覚して失敗、自ら最勝(さいしょう=最も優れている)親王(しんのう=皇族男子の身位の一)と称して諸国の源氏に挙兵の令旨を発した以仁王は奈良に逃れる途中、山城国の光明山鳥居前で戦死する。

その後、清盛を初めとする平家の横暴は留まることを知らず、強引に福原(神戸市兵庫区の旧称)遷都(せんと=都を他の地へうつすこと。みやこうつり)まで行う。

そうした中、東国では源頼朝が反旗の兵を挙げ関東を制圧し、平家討伐軍を編成する。討伐軍は、富士川(現在の国道富士川橋の付近)で平家を破り、その勢力は平家にとって脅威となる。同じ頃、源氏の木曽義仲も信濃で挙兵、こうして全国各地で平家に対する反乱が勃発し、日本は内乱状態に陥る。そして、平家の勢力は衰退一途を辿り始め、その最中、清盛は熱病で死亡する。

 清盛の亡き後、三男の宗盛(むねもり壇ノ浦で捕らえられ、近江篠原で義経に斬られた)が跡目を継ぐが、平家の衰退は押しとどめることができず、北陸からは倶利伽羅峠(金沢から富山に通じる国道の峠)の戦い(くりからとうげのたたかい=義仲軍7万対平家軍10万)を征した木曽義仲が京都に迫り、ここに平家は京都を捨てて安徳天皇と三種の神器をもって西国流浪の旅に出ることを余儀なくされる。

 京都に入った義仲もまた、傍若無人な振舞いで人心を失い、やがて法皇と対立、これまた法皇を軟禁してしまう。そこで源頼朝が京都に侵攻、義仲を撃破する。

 そうしたどさくさの中、一時は都落ちした平家は、勢力を挽回、神戸近くの一ノ谷に拠点を築く。これに対し頼朝は弟の範頼(のりより義経没落後、頼朝にとりいったが伊豆修善寺で殺された)、義経(よしつね)を総大将に平家討伐軍を組織し、一の谷の平家の要害を攻略に成功する(一ノ谷の合戦)。法皇は一ノ谷で捕虜にした平重衡(しげひら清盛の子で、1180年源頼政らを宇治に倒し、南都の東大寺・興福寺を焼く。一ノ谷の戦いで敗れ、捕らえられて鎌倉に送られたが、南都の衆徒の要求で奈良に送還、木津川で斬首された)と三種の神器の交換を持ち出すが、平家がこれを拒否、交渉は決裂、敗北した平家は高松付近の屋島に落ち延びる。

 源氏は、範頼を総大将に討伐軍を結成、瀬戸内海決戦で平家軍を破るが、これまた範頼は平家追い討ちを止め、その場で遊興に耽ってしまう。

 範頼に代って平家討伐軍総大将になった義経は悪天候を突いて渡辺(大阪)から四国に上陸、屋島の平家を急襲し、平家軍を撃破、義経はそのまま西に平家を追い、下関の壇ノ浦で平家を殲滅(せんめつ)、安徳天皇は入水(じゅすい=水中に飛び込んで自殺すること)し、ここに平家は滅亡するであった。


 勝者頼朝の平家に対する扱いは苛烈を極め、平家関係者の殆どを処刑する。真言宗の僧文覚(もんがく)の努力で助命の嘆願で唯一残されたのが、平家都落ちの時は、幼く奥嵯峨に隠れ住んでいたが、密告により捕らえられた平家の嫡流(ちゃくりゅう=本家の血筋。正統の家系)六代(ろくだい=出家して妙覚と号した)であるが、六代も、文覚亡き後殺害され、ここに平家の嫡流子孫は永久に絶えてしまうのである。

しかして、安徳天皇の母で清盛の娘の建礼門院徳子は、安徳天皇と入水したが助けられ、出家(しゅっけ=家庭などとの関係を切り、世俗を離れ、戒〔かい=仏教の信者が守るべき行動の規範〕を受けて僧になること)して京都・大原の寂光院(じゃっこういん)で亡き平家の菩提を弔いながら往生を遂げる。

なお、源平合戦ゆかりの地、屋島に近くに「平家物語歴史館」開館し、四国高松の新しい観光スポットになっている。

 

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