天皇全国巡幸

 

天皇が外出することを行幸(ぎょうこう)といい御幸〈みゆき〉ともいう)、行く先が2か所以上にわたるときには巡幸(じゅんこう)という。

 

また、太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出することを行啓(ぎょうけい。巡啓ともいうといい、行幸と併せて行幸啓(ぎょうこうけい)という巡幸啓ともいう)

    

 1946(昭和21)年1月の天皇の人間宣言に続いて、戦禍で悲惨な目にあった国民を慰め励ますことを目的に企画とされたのが天皇全国巡幸で、それは、同年2月 から54年8月にかけて昭和天皇が沖縄を除く全国46都道府県を回るというものであった。もっとも、真の狙いは、戦後版のあらたな象徴天皇崇拝の国民の意識形成にあった。

 

天皇は「巡幸」で国民の歓迎を受けた。人々は「咽(むせ)び泣いた。万歳を叫んだ」(戦後最初の侍従長で、全国巡幸の企画・立案・実施の中心人物だった大金益次郎の著作『巡幸余芳』)

 

 「(外国なら)『夫を返せ!』『せがれを返せ!』の悲痛な叫び」があがっただろうと映画監督、伊丹万作は「静臥(せいが)饒舌(じょうぜつ)録」に記した。

 

巡幸は1946(昭和21)年2月19日の神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場を皮切りに京浜地区からはじまった(2月28日東京都、3月25日群馬県、3月28日埼玉県、さらにこの年、千葉、静岡、愛知、岐阜、茨城県と続く)

 

天皇は、かつての軍服で白馬にまたがった大元帥の勇士から、背広に中折帽とういう庶民的な服装に変身、人々に近づいて気軽に声をかけるそのぎこちない会話や帽子を上にあげる独特のしぐさ(動作)がかえって国民には新鮮に写り、戦争で疲弊した国民は、現人神であった天皇の姿に驚きながらも、親しみと感激をもって天皇を迎えた。

 

人々に問いかけた後の天皇の「あっそう」という口癖は流行語になったことにみられるように、人間的・平和的天皇を演出するこの企画(パフォーマンス)は大成功をおさめた。

 

だが、翌47(昭和23)年の関西巡幸がはじまる頃には歓迎側の余りのヒーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、また当時軍国主義(侵略戦争)の象徴として禁止されていた日の丸を掲げる者がでてきたことともあいまって、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸の1年間中止をさせるところとなる。

 

このあと49年に再開され、52・53年の中断を経て、足かけ8年、54(昭和29)年8月に残っていた北海道を巡幸して(8月8日〜23日)、46年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。

 

なお、悲惨な地上戦沖縄戦が展開され、多大に犠牲者を出した沖縄は除かれた。

 

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1947年12月7日、原爆投下の広島市内で万歳をする群衆に、帽子を振ってこたえる昭和天皇

 

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左;広島市庁舎/右;広島県庁

 

昭和天皇全国巡幸の日程

 

都道府県

巡幸日

1946年

(昭和21年)

神奈川

東 京

群 馬

埼 玉

千 葉

静 岡

愛 知

岐 阜

茨 城

2月19日〜20日

2月28日〜3月1日

3月25日

3月28日

6月6日〜7日

6月17日〜18日

10月21日〜23日

10月24日〜26日

11月18日〜19日

1947年

(昭和22年)

大 阪

和歌山

兵 庫

京都・大阪

福 島

宮 城

岩 手

青 森

秋 田

山 形

福 島

栃 木

長 野

新 潟

長 野

山 梨

福 井

石 川

富 山

鳥取・島根

山 口

広 島

岡 山

6月5日〜7日

6月7日〜9日

6月11日〜13日

6月14日

8月5日

8月6日〜7日

8月7日〜10日

8月10日〜11日

8月12日〜14日

8月15日〜17日

8月17日〜19日

9月4日〜8日

10月7日

10月8日〜12日

10月12日〜14日

10月14日〜15日

10月24日〜27日

10月28日〜30日

10月30日〜11月1日

11月27日〜12月1日

12月1日〜5日

12月5日〜8日

12月9日〜11日

1948年

(昭和23年)

なし

 

1949年

(昭和24年)

福 岡

佐 賀

長 崎

熊 本

鹿児島

宮 崎

大 分

5月19日〜21日

5月22日〜23日

5月24日〜27日

5月29日〜6月1日

6月1日〜4日

6月4日〜7日

6月8日〜10日

1950年

(昭和25年)

香 川

愛 媛

高 知

徳 島

兵庫・淡路島

3月13日〜17日

3月17日〜20日

3月21日〜24日

3月25日〜30日

3月31日

1951年

(昭和26年)

京 都

滋 賀

奈 良

三 重

11月12日〜14日

11月15日〜17日

11月18日〜19日

11月20日〜24日

1952年

(昭和27年)

なし

 

1953年

(昭和28年)

なし

 

1954年

(昭和29年)

北海道

8月8日〜23日

 

 

 

広島市の感謝決議文(1947年12月12日)

天皇陛下本市行幸に対する感謝決議文

 

 今般天皇陛下中国御巡幸の為、去る12月7日、本市に陛下の行幸を仰ぐ事が出来ましたことは本市の最も光栄とするところでありまして、市民は夙に歓喜してこの日をお待ち申し上げ、至誠を込めて奉迎し、尊顔を配しては崇敬の念いよいよ高まり、感激の裏に奉送申し上げた次第であります。

 

 我々市民は未曾有の戦禍を蒙り、その後旬日ならずして終戦の悲運に遭遇し、一時は全く虚脱状態に陥りましたが、日時の経過するに従い漸く次第に平静に復し、新日本建設の光明を認め、郷土の復興に努力して今日に至っているのであります。

 

 私共は既に徒に過去を負うことを止めて、災いを転じて福となす決意の下に新生日本の為に民主化の徹底を図り、平和の実現に一路邁進している次第であります。

 

 この尊い事実こそは、すなわち天皇陛下の御仁徳を基のまま顕現する事に他ならないと固く信じて疑いません。斯く観ずる時、油然として陛下を敬慕するの念湧き起こり、自ら理論を越えてこの地に陛下を御迎え申し上げたいとの純情が胸に満ち、この熱情が速やかに達成されるよう切望して止まなかったのであります。

 

 幸いにして今回の我等の宿願が達せられる事と相成り、初冬のよき日陛下をお迎えして、本市の政治、教育、産業、厚生等の各観点からそれぞれの箇所に於いて、御疲労の御身にも拘らず新しく御視察を賜わり、剰え有難き御激励のお言葉を頂戴いたしました事は、関係者一同の深く感銘するところでありますが、就中奉迎式場に於いて特に本市民に賜わりました優渥なる御言葉は、全市民の心謄に深く刻まれ、温き御論には20万市民が悉く感泣して、感奮興起し世界平和の実現を固くお誓い申し上げた次第であります。

 

 供養塔に眠る多数の尊い犠牲者たちも遺族と共にその栄光を分かち、静かに無言のうちに奉迎していた事と信じますが、 図らずも侍従の御差遣を賜わり、陛下に深い御仁慈に感極まって新日本建設の礎石となった事を今更の如く喜んだ事と察します。

 

 又爆弾症に悩む不幸な患者達も侍従に御手厚い御慰問にあずかり、高恩の有難きに感涙を禁じえなかった事と信じます。  極めて御繁忙な御日程の裡にも、かくも御心を砕かれまして行き届いた御視察を賜わりました事は、全市民挙って感謝感激に堪えないところであります。

 

 謹んで厚く厚く御礼申し上げます。

 全市民は行幸を仰いで全く安堵し、天皇陛下にご健康を衷心よりお祈り申し上げながら、新しい覚悟の下に必ず御心に御副い申し上げることを固くお誓い致しております。

 

昭和22年12月12日

 

 

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