軍人勅諭

 

朕は汝等軍人の大元帥なるぞ

 

大元帥(だいげんすい=全軍を統率する総大将で、旧陸海軍を統帥した天皇の称)

 

だいげんすい

 

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海軍大将東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の筆による聖訓5箇条(軍人勅諭5箇条)

 

東郷平八郎=1847〜1934。薩摩藩鹿児島県)の生まれの軍人。海軍大将・元帥。日露戦争では連合艦隊司令長官となり、日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた。のち、軍令部長・東宮(とうぐう)御学問所総裁を歴任した。

 

 

明治天皇が陸海軍軍人に対して下した訓誡(くんかい・訓戒=事の善悪・是非を教えさとし、いましめること言葉)の勅諭で、正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」という。

 

明治初年の1880(明治13)年に高揚した自由民権運動に対して、明治政府は大衆に立憲君主制への移行という一定の譲歩行うと共に、運動に対する弾圧と相俟って統帥権の確立によって絶対的権力を保持しようとした。

 

すなわち、軍隊に対する権力を議会(政治)から分離したのであるが、天皇親率(しんそつ・しんしゅつ=天皇自からひきいる)の軍隊としての性格を付与するために勅諭の形式をもって発布されたのが、軍人勅諭である。

 

同勅諭は、1878(明治11)年8月に起きた東京竹橋の近衛砲兵隊260余名が給料減額や西南戦争での恩賞の不満などを理由に決起し、死刑53名に及ぶ厳刑が科された事件である「竹橋事件」を契機に、陸軍卿(きょう=政治の要職にある大臣・長官)名をもって全軍に発布された「軍人訓誡(くんかい。訓戒)」の発展的所産であるが、その草案は、1880(明治13)年に山県有朋(やまがたありとも)の命をうけて西周(にしあまね)が最初に起草し、それを福地源一郎(明治前半期の政治評論家・文筆家で、後に東京府議会議長を務めた)が修正加筆、それに井上毅(こわし)がさらに加筆、山県もまた自らの意見を加え、1882(明治15)年1月4日に発布されたもので、第2世界大戦敗戦まで「教育勅語」とともに天皇制国家イデオロギーの2大支柱となった。

 

軍人の守るべき徳目として「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5カ条を掲げ、その基盤となる誠心(せいしん=天皇対する絶対忠誠)を説いた上で、天皇の統帥権を歴史的に基礎づけ、軍隊を動かす権力である兵権(へいけん)が、政府を構成し、国の統治機関を動かして実際に政治を行う権力である政権とは独立に天皇に直属することを明示し、さらに、軍人の政治不干与(関与)を説いている。

 

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軍人勅諭下賜

1882(明治15)年1月4日、明治天皇は赤坂仮御所での「政始(まつりごとはじめ=毎年正月吉日を選んで、公卿以下が太政官庁または外記庁に出て、その年の政事を初めて行う朝廷の儀式)」の後、陸軍卿(きょう=明治の太政官制で、各省の長官大山巌(いわお)に軍人勅諭を下賜(かし=高貴の人が、身分の低い人に物を与えることした。海軍卿の川村純義(すみよし)は出張中で大山が陸・海2軍を代表してこれを拝受(はいじゅ=受け取ることをへりくだっていう語した。

 

 

軍人勅諭 明治15年陸軍省 達乙第2号 (1月4日)

 

本日別紙之通 勅諭有之候条右写相添此旨相達候事(東京鎮台士官学校戸山学校教導団ヘハ「勅諭本書ハ追テ可相渡候事」ノ但書ヲ加フ参謀本部監軍本部近衛局ヘ通牒尤近衛局ヘハ但書ノ趣意ヲ加フ)

我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡(しばしば)なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おんおきて)にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆唐国風(からくにぶり)に傚(なら)はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人(さきもり)なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回(ひきかえ)すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻(もと)り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(まつりごと)衰へ剩(あまつさえ)外国の事とも起りて其侮(あなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟(しんきん)を悩し給ひしこそ忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ然るに朕幼(いとけな)くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績(いさを)なり。歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威(みいず)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉(ほまれ)を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ひとちこころ)になりて力を国家の保護(ほうご)に尽さは我国の蒼生は永く太平の福(さいはひ)を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭(をしえさと)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

 

1.軍人は忠節を尽すを本分とすへし

 

凡(おおよそ)生を我国に稟(う)くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況(ま)して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ

 

1.軍人は礼儀を正しくすへし

 

凡(おおよそ)軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承(うけたまわは)ること実は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧(くわかい)を失ひたらむには啻(ただ)に軍隊の蠧(と)毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし

 

1.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし

 

夫(それ)武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を弁へ能く坦力を練り思慮を殫(つく)して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接(はじは)るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(さいろう)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

 

1.軍人は信義を重んすへし

 

凡(おおよそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言(こと)を践行(ふみおこな)ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし朧気なる事を仮初(かりそめ)に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(きはま)りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺せること其例尠からぬものを深く警(いまし)めてやはあるへき

 

1.軍人は質素を旨とすへし

凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり節操も武勇も其甲斐なく世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩(さき)に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(ことさら)に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(をしう)を等閨iなおざり)にな思ひそ

 

右の5ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此5ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又5ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此5ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや

 

明治15年1月4日

 

御名

 

 

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                                                                                 乃木 希典(のぎ まれすけ)の筆による軍人勅諭                                                                                                                            

 

乃木 希典=1849〜1912。長州藩(山口県)生まれの軍人・陸軍大将。西南戦争・日清戦争に出征。日露戦争では第3軍司令官として旅順を攻略。のち、学習院院長。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死(じゅんし=君が死亡したときに、臣下があとを追って自殺すること)した。

 

 

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