原爆投下目標選定委員会
1944(昭和19)年9月のハイドパークの会談において,アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルの間で,日本に対する原爆使用の合意がなされた。翌45年,ドイツの降伏(5月7日)が目前にせまるや,マンハッタン計画に参加した科学者および兵器専門家によって構成された原爆投下目標選定委員会において,原爆の対日使用の具体的方法が軍事的観点から検討されはじめた。
最初の委員会は1945年4月27日(4月12日ルーズベルトが脳溢血で63歳で急逝。1月に就任したばかりの61歳の副大統領トルーマンが第33代大統領に就任)に開かれ,数次の会議を経て,原爆投下目標都市として,京都・広島・小倉・新潟の4つが選定された。
だが,広島は最初から投下候補都市に選定されていた。その理由は,主として@重要な陸軍兵站(へいたんー戦場の後方にあって,作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などに当たる機関)基地であり,市街工業地域の真中に兵員の積出港(宇品港)を持っている。Aにもかかわらず,まだ空襲が行なわれていない。Bレーダー攻撃の目標として格好の地理的条件にある。Cその規模からして市街の大部分を広範囲に破壊することができ,また丘陵に取り囲まれていることから爆撃効果を相当程度増大させることができる」ということであった。
同時に政治的な検討を行うためスチムソン陸軍長官は,45年5月4日,陸・海・国務3省および原爆の開発に従事した科学者の最高幹部からなる暫定委員会を設置した。暫定委員会は同年6月1日,政治的・軍事的・科学的な諸問題を検討した結果,満場一致で以下の勧告を採択している。
『@日本に対して早急に原爆を使用すべきであること。Aそれは,最も破壊されやすい家屋その他の建築物,これらに隣接した軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきであること(二重の目標)。Bそれは原爆であるとの事前の通告(警告)なしに使用するべきであること。』
さて,目標選定委員会により選定された4都市のうち,上の条件に最も適していると考えられたのは京都であったが,古都・京都に対する投下を,スチムソン陸軍長官が強く反対,その結果,京都の代わりに長崎が加えられ,最終目標を広島・小倉・新潟・長崎とし,これら4都市は原爆投下のために通常爆撃からはずした。
7月3日,アメリカ統合参謀本部は,4都市に対する爆撃禁止命令(投下命令書は7月25日付)を出す。投下作戦(センターボード作戦)遂行の権限を与えられた在グアム第20航空軍司令部は,8月2日,(新潟は,遠すぎることと都市の規模が小さすぎることから除かれ)広島を第1攻撃目標とし,小倉を第2,長崎を第3の予備目標とする作戦命令を第509混成部隊に下した。
そして8月6日の早朝,テニアン基地を出発した3機の天候観測機が原爆投下目標の広島・小倉・長崎の上空に向かった。そのうちの一機,イーザリー少佐を機長とするストレート・フラッシュ号は,午前7時9分,広島上空に到着し,目視攻撃が可能なことを確認,その1時間5分後,午前8時14分17秒,2機の観測機とともに飛来したティベッツ大佐(機長)操縦のB-29「エノラゲイ」号は,市中心部に位置する相生橋を照準点として高度9600メートルからウラニウム原爆「リトル・ボーイ」を投下する。世界最初の悲劇の瞬間である。
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「エノラゲイ」
広島に原爆を投下した米・爆撃機B−29の愛称。ポール・ティベッツ機長の母親のファーストネームとミドルネームからとった。全長30.2メートル,翼幅43メートル。原爆投下時の乗員は12名。1995(平成7)年米・スミソニアン航空博物館で機体が公開されたが,当初予定されていた原爆被害の実態の同時展示は,米・退役軍人らの猛烈な反対で中止になった。 副機長だった故ロバート・ルイス大尉が,米紙・『ニューヨーク・タイムズ』の依頼で搭乗中に書いたメモには「1分間,これから何が起きるか,誰にもわからなかった。爆撃手らは,(目を保護する)サングラスをかけ忘れていた。次の瞬間,ぞっとする光景を目にした。(投下直後のキノコ雲を見ながら)後,百年生きたとしても,この数分間のことは忘れない」「この瞬間,いったい何人が死んだんだろう」と記している(02年3月26日付『東京新聞夕刊』)。 エノラ・ゲイ乗組員:広島の放射線被害「これほどとは…」=乗組員の1人で爆発物の監視を担当したモリス・ジェプソンさん(87)が09年8月2日までに,米ラスベガスの自宅で毎日新聞とのインタビューに応じた。ジェプソンさんは,64年後の今も被爆者の後遺症が残っていることについて「放射線被害がこれほど大きいものとは思っていなかった」と述べた。また,原爆使用についてオバマ米大統領が「道義的責任」に言及したことについて,「間違っている」と批判,「戦争早期終結のためだった」と使用を改めて正当化した。 ◇オバマ大統領の道義的責任発言「世間知らずで間違い」 エノラ・ゲイ乗組員で生存しているのはジェプソンさんを含む2人だけ。オバマ大統領の発言を乗組員が公に批判したのは初めて。ジェプソンさんらは45年6月から,テニアン島(太平洋)で特別任務メンバーとして,他の一般米兵とは離れて生活。当時から「私は物理を学んでいたから爆発物が原爆だと知っていたが,機長(故ティベッツ氏)らを除き,ほとんどの乗組員は超強力爆弾(スーパー・パワフル・ボム)という認識だった」と振り返った。ジェプソンさんによると,投下時,爆弾(5トン)が離れた瞬間,機体が跳ね上がり,約43秒後に窓から閃光(せんこう)が入り,爆風で飛行機が振動した。しばらくして再び振動が起き,機長が機内通信装置で,投下されたのが原爆であることを乗組員に明かしたという。ジェプソンさんは「窓から(キノコ)雲と火が広がっていくのが見えた。多くの命が奪われ,多くが破壊されていることを意味した。うれしいことではなかった」と語った。現在も残る放射線被害については,「(原爆を開発した)ロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)自体,これほど被害が大きいことは理解していなかったと思う。米国の物理学者も驚いた。当時のトルーマン大統領でさえ知っていたとは思えない」と語った。だが,当時は米軍の本土上陸作戦が近づいていたと説明,「上陸すれば,米兵だけでなく,日本兵や一般の日本人の多くが犠牲になることは明白だった。原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための唯一の選択だった」と述べた。その上でオバマ大統領が4月にチェコ・プラハで原爆使用国としての「道義的責任」に触れ,「核のない世界」を目指すと述べたことについて,「原爆を使用した米国を罪だとしており,あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言だ。彼は我々の世代が死亡するのを待っている」と批判。将来,米大統領が被爆地を訪問することになった場合,「とても悪い気分になるだろう」と述べた。 【略歴】モリス・ジェプソン氏(Morris Jeppson)=米・ユタ州生まれ。ハーバード大やマサチューセッツ工科大(MIT)で,原爆に設置される電波装置の技術を学び,陸軍飛行部隊将校としてロスアラモス国立研究所入り。エノラ・ゲイ機内では,爆発物が正確に作動するかデータを監視した。第2次世界大戦終了後は民間の研究所などに勤務(09年08月03日付『毎日新聞』)。
米・ネバダ州ラスベガスの自宅 |
この人類史上初の原子爆弾は,市中心部の細工町(現大手町1丁目)の島病院上空570mで炸裂,巨大な火の王と化した(1秒後の温度は太陽表面度の2倍の1万2,000度に達した)。熱線,衝撃波,爆風,そして放射能が地上を覆い,一瞬のうちに広島市の6割が破壊しつくされ,爆心地から半径500mにいた人の約90%が即死した(なお,広島市役所の発表によると,原爆症も含め1950年までに,約24万7,000人が原爆のために死亡している)⇒原爆ドーム
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大本営は翌7日,「1. 昨8月6日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」と発表,8日付朝日新聞は,「落下傘つき空中で破裂−人道を無視する残虐な新爆弾」,翌9日付同紙は,「敵の非人道,断固報復−−新型爆弾に対策を確立」と報じたのみであった。同日情報局総裁下村宏は,「戦局は最悪の状態」との談話を発表,陸軍大臣阿南惟幾は,全軍将兵に「死中活あるを信ず」と訓示し,「−−全軍将兵宜しく1人も残さず楠公精神を具現すべし,而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」との激を飛ばすのであった。
8月8日にはソ連が対日宣戦布告(モロトフが8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達),この報に日本が接した9日午前,最高戦争指導会議構成員会議が開かれ,ポツダム宣言受諾のための条件について,「皇室の安泰」とか,「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分,今度は長崎にB-29「ボックス・カー」号からプルトニウム型原爆「ファットマン」が投下された。
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西部軍管正司令部は,「1. 8月9日午前11時頃敵大型2機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 2. 詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」と発表,これを10日付西日本新聞が報道(朝日新聞の報道は12日付であり,しかも小さい見出しであった)したのみであった。だが長崎では市域の36%が破壊され,12月までに約8万人の人々が死亡する。長崎原爆投下報道の代わりに,10日付朝日新聞は,「東西から国境を侵犯−−満州国内へ攻撃開始。我方,自衛の邀撃戦展開」とソ連の対日宣戦布告を大見出しで報道した。
広島への原爆投下に先だって(前月の)7月26日,米英中の3か国は,日本政府に対し即時無条件降伏を要求(ポツダム宣言)したが,日本政府はこれを黙穀する。
トルーマンはこれを口実に原爆投下を指令したのであるが,その真意は,日本占領と戦後世界における対ソ優位を確保することにあった。「核兵器を背景とする世界戦略」の一環としての原爆投下ということである。
この2つの原爆と8日のソ連参戦により,日本政府はついにポツダム宣言を受諾。8月15日正午,昭和天皇(44歳)の終戦の詔書(玉音放送)が発せられ,いわゆる「15年戦争」は日本の敗戦で終結を迎えることとなるのである(なお,詔書には「敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ」の文字が見える)。
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