原爆ドーム==写真集No1 No2 動画夜景

 

原爆ドーム=世界遺産の登録名でもある「原爆ドーム」の呼称の由来を日米のメディア報道などから検証した中国新聞社によると、爆心地そばで残った「広島県産業奨励館」を「ドーム」と表したのは米軍で、占領明けの1952年には呼称が定着した軌跡が浮かび上がった。 米軍機関紙スターズ・パシフィック・アンド・ストライプス(日本版)が、46年8月6日付で「原爆はドーム状ビルディングの上空で爆発した」と写真を載せ、米第8軍(横浜)などが同年に作った広島観光の冊子も「ドーム<rルディング」と記述していたのである。 日本側は、毎日新聞(大阪版)が45年9月13日付で写真を初掲載。中国新聞は46年夏から「産業奨励館廃虚」を載せ始め、翌年に「ドーム」と表していった07年06月05日付『中国新聞』

 

日本への原爆投下に合意したルーズベルト・米大統領とチァーチル・英首相=1944年9月12日

被爆当時のドーム

爆心地

 

 

 

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原爆ドームの北西に建てられた保存記念碑の全文

 

昭和20年8月6日、史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。

 

爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した。その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失なわれ半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。

 

この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する。

                            

昭和42年8月6日 広島市

 

 

広島市中区の太田川河畔にある原爆被災を象徴する建物の旧広島県産業奨励館(原爆ドーム)は,1915(大正4)年8月5日に開館したので,建築後30年後に被爆したことになる。原爆は、同館の南東50メートルの地点に落とされた。

 

建物は1914年(大正3)に旧チェコスロバキアの建築家ヤン・レツルによって設計され、ドームがエキゾチックで印象的であった。原爆によりドームの鉄骨がむき出しになり、いつともなく原爆ドームとよばれるようになり、被爆都市広島のシンボルとしての建物になった。

 

その後ドームの風化が進んだため、広島市議会は1966(昭和41)年にドームの保存を決議、工事費の全額を募金でまかなうこととし、市長自身が先頭に立って東京をはじめ全国で街頭募金が行われた。

 

募金目標の4,000万円に対し、全国から6,600万円余が集まり、保存工事は翌年の1967年に完成した。

 

1889(平成1)年10月には2回目の保存工事が開始され、翌年3月終了した。保存工事も募金でまかなわれ、募金は目標額を大きく超える4億円余も集まった。

 

また、1996(平成8年には、世界遺産(世界文化遺産)の文化遺産として登録された。

 

 

原爆の日(原爆忌)

 

「ノーモア・ヒロシマ」のスローガンが象徴する原爆反対の平和祭の日。

広島の歴史的悲劇を二度と繰り返さないように、毎年8月6日を原爆の日とし、広島をはじめとする各地で記念行事が行われている。

 

 

原爆の子==千羽鶴

 

当時広島文理大学の学長であった教育学者の長田新(おさだあらた)の編集で、1951(昭和26)年に岩波書店より刊行されたさまざまな形で広島原爆を体験した子供たちの作文集。

 

被爆時に4歳より中学生までの年齢にあった子供たちの見聞や体験を、その6年後につづらせた作文100余編が収められており、子供の筆であったことから、多くの読者を感動させ、平和への強い証言となった。

 

1952年には、新藤兼人(かねと)監督の手で映画化が行われた。

 

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原爆の子−広島平和公園

 

 

 

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