ファットマン(ふとっちょ)

 

ヒロシマから74時間47分、太陽が爆発したのか

 

 

fattomann

 

B−29搭乗員

 

1945年8月9日午前11時2分、長崎市北部の松山町171番地(当時の住所)上空約500メートルの所で原爆が炸裂(さくれつ)した(現在の平和公園の一角「原子爆弾落下中心地」)

 

米国のB−29爆撃機「ボックスカー」が投下した原爆は、その3日前に広島を焼き尽くしたウラン型原爆より強力なプルトニウム型で、8000度という高熱の巨大な火の玉と化した。

 

永野若松知事は第一報で「広島ノ被害ニ比較シ被害ノ程度極メテ軽微ニシテ死者並ニ家屋ノ倒壊ハ僅少(きんしょう)ナリ」と打つ。しかし、次第に惨状が明らかになるにつれ、緊急情報を発し続けた。

 

一瞬にして数万の無辜(むこ=罪のないことの民、非戦闘員の命が奪われ、街は壊滅した。

 

爆心地(グランド・ゼロ)

消えた街−長崎

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長崎・鎮西学院高校(現・諫早市。校地は現在活水中・高校)

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破壊された校舎

 

原爆が人体に及ぼした影響は、熱線・爆風・放射線で、熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられない被害をもたらした。重傷になると表皮は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下の組織や骨までが露出した。

 

すさまじい爆風によって人々は吹き飛ばされ、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びた。放射線は身体の奥深くを傷つけ、時がたつにつれて様々な症状を呼び起こした。 

 

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教護所に横たわる瀕死の女性と被爆した親子

 

 

長崎ジョー・オダネル.jpg 

火葬場にいた2人の男が背中の弟を下ろし、そっと日の中に置いた。

米占領軍のカメラマンとして原爆投下後の広島・長崎に入り、被爆した市内の様子を撮影した米国の写真家ジョー・オダネル(Joe O' Donnell=07年8月10日85歳で死去。ケネディーの写真は有名)の「亡き弟を背負った『焼け跡にたつ少年』」

 

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/qa/image/qa_ph6.jpg

長崎に原爆を投下したB−29「ボックスカー」(北マリアナ諸島【米自治領】のテニアン島から飛び立った。機長スウィーニー

 

原爆が投下された1日(45年8月9日)

 02:49 原爆を搭載したボックス・カーがテニアン島を離陸

 07:00 市内の濃霧が晴れる

 07:50 空襲警報発令

 08:30 空襲警報解除

 08:56 搭載機、屋久島上空を通過

 09:45 搭載機が福岡県小倉市上空に。視界不良で長崎に進路変更

 10:38 被爆前では最後の門司港行き列車が長崎駅を出発

 10:58 ラジオが「敵機が島原半島上空を北西に侵入」と放送

 11:00 長崎市上空に到着

 11:02 原爆投下。松山町上空500メートルで爆発

 11:09 空襲警報発令

 11:30 長崎県防空本部から救護隊員2人が自転車で出発

 12:05 空襲警報解除

 12:30 長崎県庁から出火。市内各所でも出火

 12:51 搭載機が沖縄の読谷飛行場に着陸

 13:50 救援列車第1号が負傷者の輸送を開始

 14:45 西部軍管区司令部「敵大型機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり」と発表

 15:00 長崎県庁が全焼。さらに延焼拡大

 18:00 長崎県警が佐賀県警などに救援隊派遣を要請

 (長崎原爆戦災誌などから抜粋−05年08月9日付『朝日新聞』)

 

 「いま私は死神になった。世界の破壊者だ」==最初の核実験に成功したときアメリカの原子爆弾製造に指導的役割を果たし、第2次世界大戦後、原子力委員会の要職を務め、「原爆の父」と称されて国家的英雄といわれていた物理学者オッペンハイマーJohn Robert Oppenheimer;1904〜1967)の心に浮かんだ言葉。オッペンハイマーは、1949から1950にかけての水素爆弾製造の是非をめぐる論争において、製造計画に反対したため彼の影響力を怖れた米・原子力委員会は、1954年、彼の権威を失墜させる目的事実無根のスパイ嫌疑をかけ、彼が機密事項に関与することを許可しない決定を行った(いわゆる「オッペンハイマー事件」)。当時、アメリカ社会を支配したマッカーシズム「赤狩り」の流れのなかで引き起こされた事件である。1963年アメリカ政府は彼にフェルミ賞を授与し、この決定の誤りを認め、彼の名誉回復を図った。

 

ハンガリー生まれのユダヤ人でナチスの迫害を避けて米国に亡命、1941(昭和16)年から原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)に参画、第2次世界大戦後シカゴ大学物理学教授となるが、1949年から2年間、ロス・アラモス研究所の副所長として水素爆弾開発を指揮し、その後、スタンフォード大学の研究員となり、大統領レーガンが提唱した戦略防衛構想(SDI)の研究に携わったE・テラーEdward Teller;1908〜2003は、広島、長崎への原爆投下は誤りだったとしながら核兵器を含むハイテクがなければスターリンが欧州を支配していただろう」と、核への信仰を捨てなかった。

 

 

長崎に原爆を投下したB29のスウィーニー機長は、直後の9月、長崎に入り、廃虚の爆心地から青空を見上げる。この時の心境を回想録で「後悔も罪悪感もなかった」と記した。罪悪感を抱くべきは日本の指導者たちだと。機長はカトリック信者だった。日本有数の信者の街、浦上を全滅させたと知る由もない。二つの原爆が戦争を終わらせたという「落とした側の論理」を貫き、04年、84歳で逝った。彼らの第1目標だった小倉は、近くの空襲の残煙で目視がきかなかった。投下に3回挑んで燃料を費やし、第2目標の長崎に賭けることになった。曇天だったが、その時だけ一瞬、雲が切れたという。ヒロシマから74時間47分。いくつもの必然と偶然が産み落とした二つ目は、機長に勲章を、真下の7万4000人には死をもたらした。幾多の残酷な出会いを「しょうがない」の言葉でくくった防衛相は去り、与党は民意の報いを受けた。被爆者の悲願、核廃絶への道は険しい。「目を覚ませ」と南風に言わせ、また夏がゆく(07年08月10日付『朝日新聞』−「天声人語」)

 

 

 

長崎型(プルトニウム239=材料は8キロ〔夏みかんぐらい〕)原子爆弾

 

Fát Màn

長崎に投下された史上初のプルトニウム型爆圧臨界式原子爆弾のコードネームで、その形が太く丸いところから与えられた。

 

直径1.52m,長さ3.25m,重量4.5トン,TNT火薬22キロトンに相

 

参考文献=『昭和―2万日の記録F廃墟からの出発』講談社(1990.1

 

 

マリア

 

浦上天主堂(長崎市本尾町)の小聖堂に安置された被爆マリア像(05年8月9日から一般公開)。

浦上天主堂は爆心地から北東約500メートルにあり、原爆で全壊。祭壇最上部に飾られていた木製のマリア像は、がれきの中から頭部だけが見つかり、浦上出身の神父が北海道の修道院に持ち帰ったが、被爆30周年の75年に返還された。

浦上天主堂ではこれまで、破損の恐れから常時公開せず、模型を展示していた。

しかし、公開を求める声が強かったため約8,000万円をかけて04年12月から祭壇を製作、05年3月からチャペルの改修を行っていた。

チャペルは縦15メートル、横6メートル、高さ6.2メートル。中央部のマリア像を安置する祭壇(高さ6メートル、横幅3.6メートル)はケヤキ製で、原爆投下前の祭壇の2分の1の大きさに復元した。

チャペルの壁には、原爆で亡くなった浦上教区の信者約3,200人の名前と洗礼名を刻んだ銅製の銘板(横1メートル、縦1.5メートル)6枚を設置している(05年8月8日付『長崎新聞』)。

 

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