☆江戸時代の死刑制度☆

 

第8代将軍徳川吉宗が、老中松平乗邑(まつだいらのりさと=吉宗を補佐して享保の改革を断行した。茶の湯にも興味を示し、名物茶道具を収集して『三冊名物集』を著した等に命じて編集させ、将軍自ら草案に筆を加えた、1742(寛保2)年完成の江戸時代の代表的法典で上・下2巻103条から成る先例集が公事方御定書(くじがたおさだめがき=御定書百箇条)であるが、その主たる内容の一つがが残酷な刑罰の緩和にあった。

 

すなわち、戦国時代の分国法では様々な残虐な死刑が執行されていて、それは、江戸時代に入っても残存していたが、公事方御定書では死罪の種類が、以下の斬首刑(軽)から鋸挽刑(のこびきけい)の6種類に整理された。

 

また、大宝律から行われていた、犯罪人の親族・縁者が連帯責任で罪を負い罰せられる「縁坐(えんざ)(基本的には明治初年まで続いた。これに対して他人の犯罪により連帯して処罰されることを「連座」という)や拷問を制限した。

 

(1)斬首(ざんしゅ)(軽)=下手人(げしゅにん)

 通常の斬首刑で、利欲にかかわらない殺人、およびそれに準ずる罪に適用された。庶民に対する死刑のうち最も軽いもので、10両以上の窃盗・他人の妻と不義密通(男女とも)・喧嘩口論による殺人・殺人犯逃亡の手助け等に適用された。

小伝馬(こでんま)町の牢屋(ろうや)の中の切場(俗に土壇場【どたんば】)で刑が執行された。埋葬・弔い(とむら=葬式。野辺の送りは許された。

 

 

(2)斬首刑(中)==死罪

利欲にかかわる殺人に科せられた刑罰で、牢屋で執行され、斬首後の死体は様斬(試し切り)に使用された。弔いは許されず、財産家屋敷・家財)も没収された(闕所【けつしよ】)の刑)。さらに、情状の重い者には引廻(ひきまわ)しが付加されることがあった。

 

 

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(3)火炙ひあぶり)==火刑・焚刑(ふんけい)

 竹・茅(かや)・薪(まき)等を積み上げた柱に縛りつけた罪人に火をつけ焼き殺す刑罰で、放火犯に対して公開で執行された。

 

 

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(4)斬首刑(重)==獄門

斬首後、首を主要街道沿いの刑場に3日2夜晒(さら)した梟【きょう】。梟首【きょうしゅ】。晒首【さらしくび】とも)。首はその後棄てられた。公儀に対する重い謀計、主殺し、親殺し、関所破り等の重罪に適用され、江戸では牢屋内で罪人を斬首(ざんしゅ)したのち、首を浅草小塚原(こづかっぱら。現・東京都荒川区南千住5丁目付近。「古塚原」・「骨ヶ原」とも)か品川鈴ヶ森の刑場に送り、台床(獄門台)の上に首をのせそのそばに罪状を記した立て札を立てて3日2夜さらした。もとは牢屋(獄舎)の門に首を掲げたところから獄門といわれた。

 

 

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(5)磔(はりつけ)刑==十字架刑

イエス・キリストで有名な刑罰で、罪人を柱に縛り付けて槍(やり)で刺し殺す刑で、ユダヤ、古代ギリシア、ローマなどで古くから主としてキリスト教の迫害に用いられた。日本では、江戸時代にあっては、小塚原と鈴ヶ森の刑場で行われた。引廻(ひきまわ)しを付加するときと、しないときがあったが、柱にからだを縛りつけた罪人を2人の執行人が左右から、20〜30本ぐらいの槍で突き刺し、最後にのどに左から「止(とど)めの槍」を突いた。死体はそのまま「3日2夜」さらされた。公開刑として実施されたが非常に凄惨な刑であった。

 

 

 

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(6)鋸挽(のこぎり)==鋸挽

反儒教的犯罪である尊属・主人等への殺人罪に適用。罪人を首だけ出して土に埋め、希望者に鋸で首を挽かせた。しかしながら後年形式化し、日本橋南の晒(さら)し場で2日間さらし、江戸市中を1日引廻(ひきまわ)、刑場で磔(はりつけ)にした。

 

 

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 なお、公事方御定書の制定は、幕府が、武力を用いないで、教化(きょうか=教え導き、よい方向に向かわせることまたは法によって世を治める徳川第5代〜7代将軍時代に大老・側用人補佐のもとで進められた文治(ぶんじ・ぶんち)政策(文政)を確認したことを意味するものとして、歴史的に注目されている。

 

1745(延享2)年までの追加は本文に組み入れられたが、それ以後の分は別冊とされ、「御定書に添候(そえそうろう)例書」と呼ばれた。

 

さらには、金融や信用取引の繁雑化と農地関係の変動という時代の洋生から、田畑永代売買の罰則緩和や質地関係諸規則、時効制度を創設した。

 

だが、この御定書はこの後の裁判に大きく影響し、条文に拘泥(こうでい=こだわること)する弊害を発生させ、法適用の柔軟性を喪失させる結果ともなった。

 

その後も追加・修正が行われて幕末に至り、大政奉還(徳川15代将軍慶喜が征夷大将軍の職を辞し、政権を朝廷に返上することを申し出、朝廷がそれを許可したこと)の直後には明治政府もとりあえず準用した。

 

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