☆ドミニカ移民☆

 

カリブ海のドミニカ共和国に暮らす日本人移住者たちが、移住50周年記念誌「青雲の翔(しょう)」を09年8月に発刊。50年代後半に日本政府の募集に応じて海を渡り、半世紀。約100人のインタビューや手記、当時の写真など約400ページに及ぶ。「青雲の翔」の編集は3年前から始まり、現在最終的な編集作業中だ。移住者の手記やインタビュー、ドミニカ移住訴訟の経過、写真でつづる50年、2世たちの活躍の様子のほか、子どもたちの絵や作文も収められる。

 

ドミニカ共和国への移住事業で過酷な生活を強いられた日本人移民に最高200万円を支給するドミニカ(民)住者特別一時金支給法案が06年11月14日午後、衆院本会議において全会一致で可決、成立した。同法は、50年代の移住事業が移民に多大な労苦をかけたことを政府として反省し、移住した約1300人とその遺族に1人当たり50万〜200万円の特別一時金を支給する内容。06年度中に施行される。

東京地裁が06年6月7日の判決で政府の当時の対応を違法と認定したのを受け、政府と原告側が和解。原告以外も対象とした救済法案が超党派の議員立法として提出されていた。

 

 

戦後、海外からの引き揚げ者などで急増した人口を減らすため、日本政府は中南米への移住を推進したが、地球の裏側の島国(九州に高知県を併せた広さ)ドミニカ共和国カリブ海に浮かぶ魅惑の国・首都はサントドミンゴ)への移住もその一つ。

 

いわゆる移民個人あるいは集団が職を求めるなどのさまざまな動機、原因によって、恒久的に、あるいは相当長期間にわたって、一つの国から他の国に移り住むこと。尚、日本で第2次世界大戦後の海外移住者数は81年まで累計23万9,679人となっている。その年次別の推移は、51年以後、移民は増加し始め、57年には1万6,620人とピークに達した。しかし、以後は減少、いったん4,000人台となったのち、71年、72年にふたたび増加、以後減少し、3,500人前後の数字を示していた。70年代後半から日本人移民数が減少したのは、日本経済の高度成長による国内生活水準の上昇があった)である。

 

しかしそれは、戦後移民史上、最悪のケース日本の移住政策で最大の失敗)「最も悲惨な(国策移民の)失敗例」となった。移民の心の中には、「国にだまされた。私たちは地球の裏側に捨てられた棄民だったんだ」との、国に裏切られたとの思いばかりが広がった。

 

日本海外協会連合会(現・独立法人国際協力機構=ジャイカ)は、56年から59年にかけて「カリブ(海)の楽園」をキャッチフレーズにして、日本政府の募集要領(要綱)を基にドミニカ共和国への移住者を募集、249家族計1,319人が移住した。

 

募集要項では約18ヘクタールの肥沃(ひよく=土地が肥えていて作物がよくできること)な土地を無償譲渡するとされたが、実際の配分されたのは約束の3割の広さにも満たない荒れ地だった。また、農業に必要な水利設備がなく、地面は石ころだらけで、塩が吹いているところもあった。その上、農耕地も所有権を認められなかった。

 

ドミニカの国内法や日本政府とドミニカ政府間の取り決めでは、日本人の移住者には土地の所有権は与えられず、耕作権だけだった。だが、こうした重要なことが日本政府の募集要領(要項)には掲載されていなかった。政府は重大な事実を意図的に隠蔽、自国民を騙して国外に捨てたのである。

 

実際、ドミニカ駐在の大使は、現地の水利設備が不十分で、土地に塩分が含まれていることを知っており、現にドミニカ側も水不足のため日本人の入植拒否する地区もあったほどである。この事実も、隠された。国家による詐欺である。

 

その実態は、移民ではなく、まさに「日本政府による日本国民」の棄民(政治的・経済的な理由から国家の保護から切り離された【国家から見捨てられた〈元〉自国民のこと。第2次世界大戦中まで日本の支配下に〈事実上の植民地で〉あった満州や樺太の開拓に国策の下でかり出され、敗戦後に当地に置き去りにされ、その後も積極的な帰国策を講じられなかった人々や、戦後の国内の食料難や外地からの引き揚げによる人口増の対する国策として日本製が推し進めたハワイ、カリフォルニア州、南米諸国への移住、あるいは「地上の楽園」とのキャッチコピーの下で官民あげて行われた北朝鮮への帰還政策などがそれである)であった。当然、移住者の生活は困窮を極めた。

 

それゆえ、61年から63年に約130家族が国費で集団帰国し、あるいは南米へ再移住したが、50数家族、約250人の残留者はその後も移住条件を守るよう日本政府と交渉したが決裂した。

 

たまりかねて帰国した人々も政府の責任を追及したが、事態は改善されなかった。

 

最後の手段として、現地に残って辛酸をなめた人たちを中止に移住者126人は、00年7月に「政府にだまされ棄民扱いされた」などとして国に約25億円の賠償を求めて提訴した。

 

翌年8月の第3次提訴までに「帰国組」もこの集団訴訟加わり、原告数177人に膨れあがり、計約32億円を国に賠償請求する規模にまで発展した。

 

訴訟は併合審理とされて6年間続き、06年6月7日東京地裁で判決があった(係争中に亡くなった原告もおり、判決時の原告は170人となっていた)この日の判決を聞くために、原告団事務局長の嶽釜(たけがま)徹さん(68)ら移民8人がドミニカから来日するなど、東京地裁には多くの原告らが家族の遺影などを胸に訪れ、東京地裁103号法廷は関係者で満席になった。しかし、「国に責任を取ってもらいたい」との願いは届かなかった。

 

判決は、「海外移住は、移住者や家族の人生に多大な影響を及ぼすもので、国は政策として企画、推進しようとする以上、農業に適した農地を備えた移住先を確保するよう配慮することが求められる」とした上で、「@外務省や農水省の当時の担当職員は、現地の農業適性について調査を尽くさなかったAドミニカ共和国政府との間で、受け入れ条件についての細部の詰めを十分にしないまま検討を進めた」と述べ、国の調査義務違反を認めた。

 

また、「移住者は営農や土地取得について制約を課される立場にあり、移住の根幹にかかわる重要事項なのに、募集要項には具体的な記載が一切なかったり、不十分だったりした」と指摘して情報提供義務違反を認定、外相、農相についても「同様に職務上の法的義務違反があった」と判断した。

 

だが、「違法行為から20年が経過したら賠償請求権が消える」とする民法上の除斥期間(じょせききかん=特定の権利について法律が認める存続期間。その期間の経過により権利は消滅する。賠償請求は20年の考え方を適用、ドミニカに入植した時点から20年以上がたっているとして、賠償請求を認めず、原告請求を棄却した。

 

除斥期間については、最高裁が98年6月12日の予防接種訴訟で「著しく正義・公平に反する場合には適用しない」との判断を示している(そのほかに中国人強制連行(劉さん)事件東京地裁判決(01年7月12日札幌高裁;石炭じん肺訴訟で70人和解、9人は勝訴(04年12月15日)も除斥期間を排除している)ことから、除斥期間を適用しないで、国家に騙された上に辛酸をなめ、しかも長い裁判に耐えた原告を救済することができたはずである。

 

いくら判決で政府を厳しく批判しても、原告の請求を全面的に退けては、結果的には政府勝訴となり、政府批判の意義も薄れる上に、政府を動かす決定的な契機にもならない。

 

かりに除斥期間を適用するにしても、その起算点は、ずさんな移民策が外交文書公開で明白になったのは00年とすべきであった。入植時点を起算点とする判決は、筆舌しがたいほどの悲惨な状況におかれた地球の裏側のいた原告に課すのはあまりのも酷というものである。

 

法の目的は正義であるが、この判決は、著しく正義、公平に反するものといわなければならない。

 

原告は控訴したが、すでに16人が亡くなり、残った原告も高齢になっている。

 

なお、ドミニカ移民問題を巡っては、訴訟中に00年12月に外務省が当時の外交文書を公開したが、そこで、政府のずさんな事前調査などの実態が判明している。

 

その結果、小泉首相も04年3月、政策の不手際を認める国会答弁をし、これを受け、政府は06年4月までに、「〈1〉現地の地域交流センター建設に1000万円の助成費を出す〈2〉国際協力機構が所有する学生寮をドミニカ日系人協会に無償譲渡する〈3〉移住50周年記念行事を外務省が後援する」などの支援策を決定したが、賠償要求とはほど遠く、現地でも支援が不十分との声が上がっている。

 

しかも、移民を推進してきた、かつて小泉首相が国会で、「外務省の対応は、ほかの役所と比べるとなっていないという声はよく聞く」と苦言を呈した外務省は、首相が謝罪し適切な対応を指示したにもかかわらず、解決に向けて積極的に動かこなかった。未だに反省はおろか、謝罪すらしていない。

 

また、麻生外相は06年6月13日、原告団の嶽釜(たけがま)徹事務局長と国会内で面会、同事務局長は、戦後の移住政策を巡る国の不法行為責任を認めた東京地裁判決を踏まえ、「心からの謝罪」と「救済措置」を求める申し入れ書を外相に提出したが、外相は、謝罪には応じなかった。しかし、「小泉首相とも十分検討の上、国の責任を果たしたい」と述べ、移住者に対する追加支援を行う考えを表明した。

 

これらの事実は、自らの過ちに率直に認めない外務省官僚の隠ぺい体質(官僚の無謬【むびゅう=誤りのないこと】体質)が、不変である顕著な証左といわなければならない。

 

 

原告団は06年7月13日午後(日本時間14日未明)、首都サントドミンゴで協議を行い、東京高裁への控訴取り下げを条件とする政府の「和解」提案を受け入れることを最終決定し、ドミニカ移民問題は、1956年の移住開始から半世紀を経て政治決着により解決に向った。

 

和解(政府)案は、小泉純一郎首相が原告側に「謝罪」を伝えるとともに、原告約170人を含む全移住者約1300人に対し1人当たり最高200万円の「見舞金」を支給する原告以外の移住者も対象とする包括的な内容ドミニカ在住の原告に一律200万円を最高に、日本在住の原告130万円、ドミニカ在住の非原告120万円、日本在住の非原告50万円)で、首相は06年7月21日、原告団代表と官邸で面会し、口頭で「謝罪」した。

 

森正次 集団帰国者副代表と握手する小泉総理の写真

 

 

ドミニカ共和国移住50周年記念式典に関する総理大臣談話について(安部官房長官)

 

 次に、お手元に配布しております総理大臣談話について申し上げます。

 この談話では、まず、移住者の方々に多大な御苦労をおかけしたことについて、率直に反省し、お詫び申し上げました。また、移住者に対する特別一時金の給付を行うこととし、立法府との協議を進めること、移住者に対する各種支援策の拡充を図ること等につき、政府の方針を述べております。また、来る29日、ドミニカ共和国において、移住50周年記念式典が開催され、総理の特使として尾辻秀久参議院議員を派遣することとしました。この特使の派遣を通じ、移住50周年を共にお祝いしたいとの総理及び政府の想いが移住者の胸に届くことを期待しております。

 

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小泉純一郎首相談話の全文は次の通り。(原文のまま)

 

 ドミニカ共和国移住問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話

 

昭和31年から昭和34年までの間に行われたドミニカ共和国への移住事業については、実施期間全般を通じ、入植先に関する事前調査や情報提供が適切に行われなかったなどの事情により、移住者は生活の立ち上げに当たって多大な困難に直面しました。その後も、同国社会の著しい混乱や全土にわたる自然災害の頻発といった不幸な事情もあいまって、移住者の方々は長年にわたる労苦を余儀なくされました。私は、移住者の方々が苦境を乗り越えて努力を重ね、我が国とドミニカ共和国との友好関係の発展に寄与されてきたことに深い敬意を表します。

 

このドミニカ共和国移住をめぐり、去る6月7日、東京地方裁判所においてドミニカ共和国日本人移住者損害賠償請求訴訟の第1審判決が下されましたが、その中で当時の政府の対応について厳しい指摘があったことを真摯(しんし)に受け止めております。政府の当時の対応により移住者の方々に多大な労苦をかけたことについて、政府としては率直に反省し、お詫び申し上げます。

 

政府としては、ドミニカ共和国移住問題について、移住者の方々が高齢になられていることなどを総合的に考え、できるだけ早期かつ全面的に解決を図ることが必要であると判断しました。このため、当時のドミニカ移住者の各人に対し、その御努力に報いるためにも、特別一時金の給付を行うことといたしました。今後、立法府においてこれを実現するために必要な措置が早急に講じられるよう、協議を進めてまいります。

 

また、平成16年3月の私の国会での発言に基づき、政府は、日系人社会全体の利益及び我が国とドミニカ共和国の友好関係発展のためにどのような対応ができるのかとの観点から、移住者の方々との対話と調整に努めてまいりました。その結果、日系人社会の拠点作りへの支援、移住者保護謝金の拡充を含む高齢者及び困窮者支援、移住者子弟のわが国への招聘(しょうへい)等を通じた人材育成等、更なる協力を積み重ねていくこととしております。同時に、移住融資についても、急激な為替変動により過重になった債務負担を軽減する等速やかに解決を図っていきます。

 

本年はドミニカ共和国移住50周年を迎え、一連の記念行事が実施されます。政府としても、移住者の御労苦に敬意を表するため、ドミニカ共和国移住50周年記念式典に、私の特使を派遣する予定です。同記念式典が、我が国とドミニカ共和国双方の人々による暖かい祝賀となることを心より期待しております。

 

平成18年7月21日

 

内閣総理大臣 小泉純一郎

 

 

 

判決骨子

1.原告の請求を棄却する

1.国には入植地の調査や移住者への情報提供を尽くさなかった法的義務違反があり、損害賠償責任がある

1.入植時が起算点の除斥期間(20年)を経過し、損害賠償請求権は消滅した

1.原告と国との間に契約は成立していない

 

 

判決要旨

 

1.国家賠償法に基づく損害賠償請求について

 

 @ ドミニカ共和国移住は、国が当時重要な政策と位置づけていた日本国民の海外移住政策の一環として、外務省及び農林省が企画立案し、財団法人日本海外協会連合会に指示して実施した。

 

A 海外移住は、移住者及びその家族の人生に多大な影響を及ぼす。農業移民の場合は何よりも入植地の農業適性が問題になるので、それを国の政策として立案、推進しようとする以上、国は、ドミニカ政府との外交交渉などにより、農業に適した農地を備えた移住先を確保するように配慮することが求められる。
 このような観点から移住政策の遂行過程を検討すると、少なくとも、外務省や農林省の担当職員には、移住先を確保するように配慮すべき職務上の法的義務を尽くさなかった点で義務違反があったというべきである。
 55年に現地調査した調査団は、入植予定地の農業適性について調査を尽くさなかった。ドミニカ政府との受け入れ条件に関する交渉でも、詰めを十分にしなかった。
 日本人移住者は、営農や土地所有権の取得に関し制約を課される立場にあったが、募集要領・要項には、これらの制約について具体的な記載が一切されなかったり、不十分な記載しかされなかった。これらの事務を担当していた外務省や農林省の担当職員は、職務上の法的義務違反があった。
 

B 行政事務を統括していた外相や農相にも、同じく職務上の法的義務違反があった。
 

2.除斥期間

 

不法行為に基づく損害賠償請求権は、不法行為の時から20年の経過で消滅するとされるが、この規定は、除斥期間を定めたと解される。本件では、原告らが入植した時点を除斥期間の起算点とするのが相当だ。提訴はその時点から20年以上経過した後で、原告らの損害賠償請求権は、除斥期間の経過で既に消滅したことになる。

原告は、除斥期間の適用が著しく正義、公平の理念に反すると主張する。確かに、原告らは物心両面にわたって幾多の辛苦を重ねてきた。しかし、訴訟提起に至る経過を見ると、帰国した原告らは62年の時点で、国の責任を追及するために積極的に行動していた。また、残留した原告らは、遅くとも74年までの間に、土地問題の解決は直接日本政府と交渉すべき課題だとの前提に立ち、様々な取り組みを開始していた。だが、提訴は除斥期間が経過した後、しかもそれから更に20年余り後だった。

すべての証拠によっても、除斥期間の規定を適用することが著しく正義、公平に反すると認めることはできない。法律的には、損害賠償請求権が消滅したものとして取り扱わざるを得ない。

 

2.債務不履行に基づく損害賠償請求について

 

 原告らは、国が、移住条件の実現を保証した契約に基づく義務を履行しなかったと主張するが、そのような契約が成立したとは認められない。

 

 

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