☆伊達宗城(だてむねなり)☆

1818(文政元)年〜1892(明治25)年
幕末から明治時代初期にかけての政治家。官位(かんい=官吏の等級)は従四位(叙位条例によると、従四位以上は勅授〈宮内大臣から伝達〉、正五位以下は奏授〈宮内大臣が天皇に奏して叙位〉とされた。
また位は、従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。 従一位は公爵、正二位は侯爵、正従三位は伯爵、正従四位は男爵に準じた)下・遠江守(とおとうみのかみ)・侍従(じじゅう=1868〈明治2〉年以後、宮内省、のち宮内庁内に置かれた侍従職の職員)。爵位(大日本帝国憲法で定められた華族の世襲的身分階級。公・侯・伯・子・男の5等があった)、伯爵(はくしゃく)のち侯爵(こうしゃく)。
1818(文政〈ぶんせい〉元)年8月1日、江戸(現東京都)の旗本(1万石未満、御目見〈おめみえ=江戸時代、将軍直参〈じきさん=将軍に謁見〈えっけん=目上の人に会うこと〉する資格のある者〉以上の武士)山口相模守(やまぐちさがみのかみ)直勝(なおかつ)の子として江戸に生まれる。
1829(文政12)年4月13日、10歳の時、伊予国宇和島(うわじま=現愛媛県宇和島市)第7代藩主伊達宗紀(むねただ=財政悪化打開の藩政改革として大坂商人からの借金を強引に一部の借金を放棄させたり、200年の分割払いにしたほか、経費節減、領内特産品の保護、検地などを行なった)の養子となり、1844(弘化1)年に伊達家第8代藩主となった(襲封〈しゅうほう=諸侯が領地をうけつぐこと。当時、宗紀の子宗徳は8歳の幼児であったため宗城を中継ぎとしたのである。そのため、1837年には、宗城がまだ隠居していないのにかかわらず、宗城の後継ぎを自分の3男宗徳と定めた。宗城の影響力はきわめて強く、実際には宗徳はお飾りの立場に近かったといわれている)。
開明(文化が進んだ状態にあること)的な発想の持ち主で、藩政改革の一環として殖産興業(生産をふやし、産業を盛んにすること)政策を推し進めて大きな成果を上げる一方、文武を奨励し、蘭学(らんがく=オランダ語によって西洋の学術・文化を研究した学問)の導入を積極的に図り、日本最初の女医(西洋医学)の楠本イネを育てた医聖(いせい=大変すぐれた医者。迷信や呪術を排して臨床の観察と経験を重んじ、科学的医学の基礎を築いた古代ギリシアの医師ヒポクラテスに代表される聖人として崇拝されるほどの名医)二宮敬作を重用(ちょうよう=その人を重んじて、重要な役に用いること。「じゅうよう」ともいう)、また、1848(嘉永元)年に高野長英(ちょうえい=1804〜1850。陸奥〈むつ〉国水沢〈現岩手県二戸市附近〉の人。名は譲〈ゆずる〉、のち長英。号は瑞皐〈ずいこう〉。長崎でシーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を組織、開港論を唱えて投獄されたが脱走。沢三伯と称して江戸に潜入、医療・訳述に専念したが、幕吏に襲われて自決した。著「夢物語」ほか、蘭書の翻訳も多い))を招聘(しょうへい)して蘭書翻訳や蘭学教授にあたらせ、さらには、村田蔵六(のちの大村益次郎〈ますじろう〉=明治政府の兵部〈1872【明治5】年に陸軍省・海軍省となる〉大輔〈だいふ=次官〉として近代兵制確立した)を招いて砲台設計や軍艦建造などの洋式軍備の充実を図った。
徳川第14代将軍の世継ぎ(継嗣=けいし)問題(第13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題)では、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)や越前福井藩主の松平慶永(よしなが=春獄)、土佐藩主の山内豊信(とよしげ=容堂)らと徳川御三卿(きょう。徳川氏の一族して御三家の次席で、将軍を補佐し、将軍に継嗣のないときは将軍家を継いだ。御三家と将軍家との間が血縁的にも疎遠になったために設けられた)の一つの一橋家(第8代将軍徳川吉宗の4男宗尹〈むねただ〉が江戸城一橋門内に屋敷を与えられ一家を創立したもので、所領10万石で家格。なお、第11代将軍家斉〈いえなり〉は一橋治斉〈はるなり【さだ】〉の長男で家治の養子。側室40人、その子女は55人を数えたといわれている)・一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。第15代将軍)の擁立を企て、和歌山藩主徳川慶福(第14代将軍徳川家持)を推す南紀派(なんきは=大老井伊直弼を筆頭とする溜りの間詰めや老中松平忠固・紀州徳川家付家老水野忠央・御側御用取次平岡道弘・大奥などに支持された)と翌年まで対立、結局敗北する。
島津久光(ひさみつ=斉彬の異母弟。斉彬の死後、子の忠義が藩主となったのちは藩政の実権を握った。藩内尊攘派を弾圧して公武合体に奔走した)・山内容堂・松平春嶽と並ぶ幕末四賢侯(けんこう)の一人に数えられたが、1858年11月23日の井伊直弼(いいなおすけ=近江国彦根藩主。掃部頭〈かもんのかみ〉。勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。のちに水戸・薩摩の浪士らに江戸城桜田門外で殺された)の安政の大獄(たいごく=大老井伊直弼が行った尊攘〈そんじょう〉派への弾圧。安政の仮条約や、家茂〈いえもち〉を第14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜〈ひとつばしよしのぶ〉擁立派の公卿・大名・志士ら100余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を処刑した)で隠居処分となったため、嗣子(けいし=家を継ぐべき子)の宗徳(むねのり)に家督を譲った。
1862(文久2)年の島津久光の公武合体(こうぶがったい=江戸末期、朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。大老井伊直弼[いいなおすけ]の死後、老中安藤信正らが主張、和宮[かずのみや]降嫁[こうか]が実現したが、のち、戊辰[ぼしん]戦争で討幕派に圧倒された)運動に際しては、これに呼応して京へ上り(上洛)、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、会津藩最後となる第9代藩主松平容保(かたもり)、山内豊信らと参預会議の一員に任命された。
だが、横浜鎖港問題(日本〈横浜港〉を開港するか、そのまま鎖国〈鎖港〉するかについて慶喜、容保の2人と春嶽、宗城、容堂、久光ら4人の意見が対立した問題。宗城ら4人は、「諸外国に宣言し、条約を結んでいる以上、横浜港は開港するべきである」という開国論〈開港論〉に対し、慶喜と容保や幕府の老中連中が強行に反対した)で第15代将軍慶喜と対立、ここから反幕府の姿勢を強めることになった。
1987(慶応3)年12月明治新政府の議定(ぎじょう=1868年1月3日の王政復古の際に置かれた官職で、総裁・参与とともに三職の一つ。1868〈明治2〉年に廃止された)に就任、軍事参謀、外国掛、外国事務総督、阪裁判所副総督、外国官知事として明治政府発足当初の外交責任者を務めた。
1869(明治2)年に設置された中央官庁の一つの民部(みんぶ=土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱ったが、1971年に廃され大蔵省に吸収された)卿(きょう=中央官庁の長官)兼大蔵卿に就任、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任となり、1871年4月に対外重要問題処理する欽差(きんさ)全権大臣に任命され、清(しん)国に差遣(さけん=公の使者として派遣すること)され、7月29日に、大日本国大清国修好条規(日清修好条規=日本と清国とが自主的に締結した最初の条約で、領事裁判権と協定関税率を相互に承認したが、通商航海条約や通商協定において、最恵国待遇を規定する条項を欠くなど変則的な対等条約であった)を締結した。
帰国後、麝香の間祗候(じゃこうのましこう=華族・親任官および維新に功労のあった者に与えられた資格で、京都御所の一室の「麝香の間」に祗候〈しこう=貴人のそばに奉仕すること〉し、天皇の相手などをした)や外国貴賓の接遇にあたった。
1892(明治25)年12月20日、東京府今戸(いまど=現東京都浅草)の自邸で没す。享年75歳。
墓所は東京都谷中墓地(遺髪が伊達家の菩提寺宇和島市等覚寺〈とうかくじ〉に埋葬されている)。

宇和島市等覚寺(初代宇和島藩主秀宗が生母の菩提のために1618〈元和4〉年に建立した)
明治政府は、功績を認めて特別に侯爵の地位を与えた。
参考資料
三好昌文 『幕末期宇和島藩の動向;伊達宗城を中心に』 三好昌文著作集第1巻 2001年
楠精一郎 『列伝・日本近代史;伊達宗城から岸信介まで』 朝日新聞社.(朝日選書652) 2000年
兵頭賢一 『伊達宗城』 愛媛縣教育會(愛媛県先哲偉人叢書第3巻) 1935年
近代日本研究会編 『末・維新の日本』 山川出版社(年報・近代日本研究3) 1981年
愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第15巻 伊達宗城・久松松平家の人々・土居清良』 愛媛県教育会 1987年
藩主人名事典編纂委員会『三百藩藩主人名事典 第4巻』 新人物往来社 1986年
愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 近世下』 愛媛県 1987年
愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 人物』 愛媛県 1989年
日本史籍協会『伊達宗城在京日記』 東京大学出版会 1995年