ボアソナード

 [Gustave Émile Boissonade](1825〜1910)

 

ボワソナード本人の写真

表紙

 

フランスの法学者。1873(明治6)年に(江戸時代に欧米列強が弱小国日本に対しその優越的な立場から強制的に結ばせた)不平等条約改正のため近代法典編纂(へんさん)を急務の課題としていた明治政府によって司法省嘱託として招かれて来日。日本の立法事業や法学教育に携わり多数の法律家を養成。最初の刑法・治罪法・民法の法典を起草する等、日本の近代法整備に大きな業績を残し、「日本近代法の父」といわれている。

 

バンセンヌに生まれ、パリで弁護士として実務についたあと、グルノーブル大学教授を経て、パリ大学助教授となる。フランスでは主に相続法、親族法を研究、『遺留分史』(1873)、『残存配偶者の諸権利について』(1874)などの著書がある。

 

来日以来、ボアソナードは、(1867年幕命によりフランスヘ渡り、フランス諸法典の翻訳・紹介にパイオニア的業績をのこした洋学者)箕作麟祥(本名:貞一郎−みつくりりんしょう)と共に精力的に立法作業を行い、フランス法に範をとった刑法(旧刑法)と治罪法(刑事訴訟法=検事公訴主義、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。ボアソナードは、重罪裁判所の裁判については陪審制が必要としていたが、政府は時期尚早であるとして、これを削除したを起草、同法は1882(明治15)年から施行された。

 

その後ボアソナードは、一般社会の基本的ルールを定める民法の起草に着手、1886(明治19)年3月、その成果が、民法第2編財産第1部物権(501条乃至813条)、人権(814条乃至1100条)、第3編財産獲得方法第1部特定名義ノ獲得法(1101条乃至1502条)として内閣に提出された。

 

つづいて1888(明治21)年12月27日、民法5編のうち第1編人事編と第3編財産獲得編の一部である包括名義による獲得方法(相続・贈与・遣贈・夫婦財産制に関する部分=身分法)を除く4編、すなわち第2編である物権、人権(債権)、第3編の第1部特定名義ノ獲得法、第4編債権担保、第5編証拠編(財産法)が民法草案として内閣に提出されるのであった。

 

ただ残部の身分法について政府は、財産法と異なり、日本古来の風俗・習慣を重要視する必要性のため、つまリ、天皇を頂点とする絶対主義国家を維持し支える基盤としての家族制度と直接関連を有するがゆえに、換言すれば、旧未の封建的家族制度を維持し、合法化するために、個人主義的イデオロギーを強く待っているボアソナードにこれを委ねず、熊野敏三・機部四郎等日本人に起草を命ずるのであった。しかし熊野・機部らは、身分法起草にあってもボアソナードの意見を聞きながらその作業を行ったため、やはり身分法の分野においてもボアソナードの思想は強く影響を与えることとなった。

 

それゆえ、身分法の草案が公表される以前から、その内容を推察し各方面から各種の批判がなされるのであったが、身分法の草案自体は、1888(明治21)年10月までに完成する(これが「民法草案人事編理由書2巻」に掲載されている全510条の法案、いわゆる第1草案である)

 

政府は、財産法について1889(明治22)年1月に元老院の審議に付したが、同年7月元老院はこの草案を議決しこれを上奏、さらに草案は天皇の最高諮詢(しじゅん)機関(勅選の枢密顧間からなる合議制の機関)として設置された枢密院の諮詢を経て、1890(明治23)年4月2日公布され、1893(明治26)年1月1日をもって施行されることとなった。

 

身分法については、1890(明治23)年5月、内閣により元老院の審議に委ねられ、元老院は若干の修正をして同年9月に議決、上奏、さらに枢密院の諮詢を経て、財産法に遅れること6力月後の1890(明治23)年10月7月に公布され、財産法と同じ1893(明治26)年1月1日より施行すべきものとされた。これがいわゆる旧民法典で(旧民法)ある。

 

民法(旧民法)は、公布されたものの、とくにその家族法諸規定が日本の伝統的家族制度を崩壊にもつながる施行反対論が巻き起こって、「民法典論争」に発展した。それは、当時台頭しつつあったイギリス法学派との学閥的対立という側面ばかりではなく、政治的対立にまで至り、結局日の目をみなかった。

 

とはいえ、旧民法の基本理念は、当時の裁判上で生かされ、その後制定された現行民法典にも取り入れられている。またボアソナードの『民法草案注釈』全5巻(仏文・1882〜89)は今日でも価値を失っていないといわれている。

 

教育者としては司法省学校(後の東京帝国大学法科大学。現東京大学法学部)や明治法律学校(現明治大学法学部−明治法律学校では法律概論、刑法、治罪法〔刑事訴訟法〕、性法〔自然法−明治期の訳語〕などの講義を杉村虎一の通訳・翻訳で行なった)などで自然法論、フランス法を講じ、多くのリーダーを育成した。また、和仏法律学校(現法政大学法学部)は、ボアソナードを教頭として迎えた。

 

そのボアソナードは、激しい民法典論争を理解できないままに、22年間の日本生活を終え、失意のうちに帰国の途につくのであった。ボアソナードは帰国当時70歳、帰国後は、スイスに近い景勝の地アンチィブでその余生を送り、1910(明治43)年85歳の生涯を閉じることになる。

 

墓碑は、南仏アンティーブ市のラビアック市民墓地Cimetiere de Rabiac)。

 

参考資料

 

  1. 近代日本法制史料集 (8) <ボアソナ―ド答議>
    国学院大学日本文化研究所/編
    国学院大学 (1986.3)
  2. 近代日本法制史料集 (9) <ボアソナ―ド答議>
    国学院大学日本文化研究所/編
    国学院大学 (1987.3)
  3. 刑法草案註釈 (上巻) [ボアソナード文献双書]
    ボアソナード/著
    宗文館書店 (1988.1)
  4. 刑法草案註釈 (下巻) [ボアソナード文献双書]
    ボアソナード/著
    宗文館書店 (1988.1)
  5. 日本立法資料全集 (別巻244) <ボアソナード論文撰>
    信山社出版 (2002.8)
  6. 日本立法資料全集 (別巻245) <ボアソナード博士著作集>
    杉村章三郎/[ほか]監修
    信山社出版 (2002.11)
  7. ボアソナード氏起稿再閲民法草案 <財産編> [ボワソナード民法典資料集成]
    星野英一, ボワソナード民法典研究会/編
    雄松堂出版 (2000.5)

 

 

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