財 閥 解 体
1945年10月22日GHQは、「主要金融機関又は企業の解体又は生産に関する総司令部覚書」を発して、財閥資産の恣意的処分を防止し、解体、清算の制限を行うため三井・三菱等15財閥にその事業内容、資本構成等の報告の提出方を指令した。
侵略戦争遂行の経済的基盤となり、戦争の度に(国民を犠牲にして)莫大な利益を獲得した財閥(皇室も一つの財閥を構成した)を解体させることは、とりもなおさず、日本の軍国主義の壊滅に直結するがゆえに、GHQにとってこの経済改革は、重要な占領政策のひとつであった。それゆえ、この覚書以前において、財閥の解体は既定の事実となっていたのである。
すなわち、マッカーサーによるいわゆる5大改革の指令を受けて、すでに10月15日午後、GHQ経済科学局長R・クレーマー大佐は、日米の新聞記者との会見において、「三井、三菱、住友などの財閥については目下種々研究中で、ポツダム宣言に沿つてその解体を考慮してゐる……財閥に対処する根本原則は二つある。第一はこれら財閥は戦争中巨額の不当利得を得たが、彼等から戦時利得を吐き出させ、すべての日本人に戦争が決して有利に事業でないといふことを、深く脳裏に刻みつけることである。第二には全体主義的な独占力を持つた経済勢力の破砕である……」と語っていたのである。
しかし日本政府には、19日吉田外務大臣が外人記者団との会見において、「日本の経済機構は三井、三菱その他の古い財閥によつて樹立されたものである、日本国民の繁栄はこれ等の財閥に努力によつて齎されたものであつた、これらの古い財閥を解体することが果して国民に利益となるかどうか甚だ疑問である」と語ったように、財閥を擁護する姿勢がみられた。それは吉田一人の考えではなく、当時の日本支配層の共通した“本音”であった。
したがって、22日のGHQによる財閥解体の覚書は、こうした日本政府の認識に対するGHQの明確な警告を意味したといえる。この覚書に接した日本政府は、10月22日「財閥の改組に関する連合国の根本方針に対しては、政府はこれに反対する意思を有せしことなく、また今後もかゝる意思を有するものに非ず、従つてその自発的改組に当たつては、連合国の方針を体し、適当の処置を講ずる所存なり」との声明を発表するが、”解体“ではなく、”改組“という言葉を使ったことにも、日本政府の財閥解体に対する消極的な姿勢が表現されていた。
ところで、財閥解体の方法は、独占資本そのものではなく、財閥機構の特殊関係による支配から最頂部を解体する形であらわれた。それゆえ財閥制限会社から子会社、孫会社を切離し、その所有株式を処分し、人的兼職を禁止し、取引の自由競争を制限する契約などをすることを禁止したのである。その上で、鮎川、浅野、古河、三菱、三井、中島、野村、大倉、住友、安田の10大財閥の全資産ならびにその家族の保有する株式および財産を、10年間の譲渡禁止の国債に改変する方法がとられたわけである(守屋前掲書352頁)。
なお、これら10大財閥の指定時現在の傘下企業払込資本金の対全国比をみると、金融業では三井、三菱、住友、安田の4大財閥で実に49・7%、10大財閥で53・0%、重化学工業では同じく32・4%と49・0%、軽工業では10・7%と16・8%、その他で12・9%と15・5%、全業種合計で24・5%と35・2%の割合を占めていた。そのうち最大規模の三井と三菱は、それぞれ全国資本の1割近く(三井9・4%、三菱8・3%)を支配し、いずれも重化学工業に7割前後の比重をおいており、日本の軍需産業の重要な担い手になっていた(持株会社整理委員会調査部第2課編『日本の財閥とその解体・資料』468〜469頁)。
さて4大財閥にとっての経済的地位の真の増加は、太平洋戦争中に起こっている。すなわち太平洋戦争中の4年間で、4大財閥は巨大なる発展を遂げたのである。たとえば重工業においては、全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%に増やし、金融においては、25・2%から49・7%に増加させているが、まさに太平洋戦争は、4大財閥にとって目覚ましい富を生んだのである。戦争の敗北さえなければ、侵略戦争は、途轍もない成功を意味した。このような状況からは、4大財閥と軍部の間に根本的な対立関係があったといわれることは、想像しがたいといわねばならない(エレノア・M・ハードレー、小原敬士・有賀美智子監訳『日本財閥の解体と再編成』66頁)。
GHQの財閥解体指令を受けて日本政府は4日、三井本社、三菱本社、住友本社、安田保全社の4大財閥解体大蔵省原案(「特殊会社の解体に関する大蔵省覚書」)をGHQに提出する。
その内容は、「(1)4大財閥の本拠たる各持株会社は、所有する一切の証券、およびあらゆる商社、法人、その他の企業にたいし有する一切の所有権、管理、利権の証憑を、日本政府の設置する持株会社整理委員会に移管し、これによって解体をうけること。(2)この持株会社の移管財産にたいする弁済は、10年間換価譲渡を禁ぜられた日本政府の公債をもってなされること。(3)三井、岩崎、住友、安田一族の一切の成員は、すべてその銀行および事業に占める現職から引退すること。(4)各財閥の持株会社の取締役および監査役などの役員も同様にその地位を退くこと。(5)各財閥の持株会社は、その傘下の銀行、会社などにたいする指令権または管理権の行使を停止すること」から成り立っていた(柴垣和夫「財閥解体と集中排除」−−『戦後改革』−−7「経済改革」所収69頁)
ところで財閥解体に関してもGHQは、他の分野の民主化政策と同様、「最初から弾圧的手段をとることを避け、日本側から自発的に目的の達成に必要、且つ適切な改革の気運の起ることを期待し、総司令部はこれを助長するに止める。しかしもし日本側が何らの手を打たぬならば命令を出すに至るであろう」ことを正式に表明していた(10月16日の三井合名の代表取締役住井辰男がGHQの経済科学局長のクレーマー大佐と会見したときに示されたもの−−中井信彦稿『三井本社史』下巻921〜924頁。なお『日本財閥とその解体』157頁参照)。
4大財閥の中で、その解体を決意したのは三井が最初である。その背景には、次のような三井特有の問題が存在した。つまり三井においては、オーナーである三井家と専門の経営集団との間に最高政策決定に関する”ズレ“が発生し、企業集団としての意思決定が遅れがちであり、それは、三井合名の理事長団琢磨暗殺後三井合名常務理事として三井の実権を握った池田成彬は、その7割を三井家対策に割かねばならなかったといわれるほどであった(『昭和2万日の全記録』第7巻171頁)。池田はすでに1930(昭和5)年において、「三井の一家は出来るだけ、あらゆる事業関係の表面から名前を没してしまはねばならない。単に三井物産、三井銀行、三井鉱山と云つたやうな社長重役から、三井一家が手を引くのみならず、出来ることなら、これらの事業に三井の名を附することさへどうかと思ふ。三井といふ名は社会公共事業、慈善事業といつた方面にのみ使へば良い。平たく云へば銭儲けの方では三井の名を使はず、銭を散ずる方だけ三井の名を出せばよい。そして三井財閥は出来るだけ単純な持株会社たる地位に修正さるべきである−−」(和田日出吉『三井コンツェルン読本』314〜315頁)との考えを持っていたが、池田は、1933(昭和8)年4月の三井発祥300年祭を契機とした三井総本家の当主三井八郎右衛門高棟の隠居をかわきりに、1936(昭和11)年1月までに、三井合名の社長を引き継いだ八郎衛門の嗣子三井高公以外の全ての同族を引退させている(芝垣前掲書39頁。なお、池田成彬『財界回顧』187頁参照)。
この三井の改革は、三井家にとっては空前の大転換であった。続いて池田は、重役定年制(筆頭常務理事および参与理事65才、常務理事および理事60才)をしいて自らも退任した(大沼廣喜『大蔵大臣商工大臣池田成彬』263頁)。
ところで三井は政治上の支配力を得るために、政友会を三井の御用党として、三菱の民政党に対抗したことは有名である。総選挙において莫大な選挙資金を提供することはもとより、政友会内部の領袖に三井の番頭を送り込んだのである(岩井良太郎『三井三菱物語』224頁)。
三井財閥解体のこの自主決定はしかし、三井家にとっては“無念”であった。このことは1945(昭和20)年11月8日の三井本社社長三井高公の従業員に宛てた、つぎの「三井解体」声明のなかに見られる。「……私共は日本に於ける財閥の存在意義並に日本経済再建に対して有する其の使命を確信致しまするが故に、幹部一同責任の重大なるを痛感し、此の問題善処の為め全力を傾斜したのでありますが、連合軍側の根本方針に基き、且つ政府の意を対し、解体方針に進むの已なきことと相成りました……」(『三井本社史』下巻930頁)。
こうして三井の事業は、三井家の始祖三井高利が1673(延宝元)年京都と東京で店を開いてから273年後に解体されたのである。まさに「国破れて、財閥もまた破れた」わけである(星野靖之助『三井百年』327頁)。解体当時三井財閥の構成は、三井本社(資本金5億円)のもとに、直系10社、準直系12社を擁し、その系列、投資会社をあわせると150社を越し、その公称資本金は28億円に上っていた。また解体によって三井物産等は、その後180社の小企業に分裂した(池田成彬伝記刊行会編『池田成彬伝』390頁。なお池田は、1945〔昭和20〕年12月2日A級戦犯容疑者として第3次指定により、自宅謹慎となるが、翌年5月23日戦犯指定を解除される)。
三井についで財閥解体を決定したのは安田であった。すなわち10月15日の安田保全社理事会は、一族が傘下諸会社から総退陣し、かつ傘下諸会社の最高責任者も総辞職するほか、保全社の解散ならびに同族持株の公開を決議したのである(『日本の財閥とその解体』157頁)。
これに対して三菱(加藤高明の憲政党が三菱の御用党といわれた。加藤内閣が成立すると幣原喜重郎と千石貢が三菱の代表として外相と鉄相に就任した.特に千石は、鉄相就任早々、従来他財閥から購入していた鉄道用の石炭を全て三菱系の石炭に切り替えて、世の中を驚かせたのである−−『三井三菱物語』345頁。なお加藤の妻春路は、三菱の創業者岩崎彌太郎の長女である)は、GHQの指令に最後まで抵抗した。その背景には、三菱財閥を特徴づけた創業者岩崎家の強力なリーダーショップがあった(それは岩崎一門の専制・独裁政治とさえいわれた−−岩井良太郎『三菱コンツェルン読本』322頁)。
特に、1916(大正5)年7月1日3代目社長岩崎久彌の後を受けて、若干38才で三菱財閥の「中心指導の地位」にあった三菱合資会社社長に就任した4代目の岩崎小彌太(彌太郎の弟で2代目社長の彌之助の長男)は「大社長」(三菱直系会社〔三菱独特の表現では分系会社と呼んだ〕会社でも1941〔昭和16〕年から社長制が採用されたが、これと区分して三菱本社の社長を大社長と呼んだ−−安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言』下巻154〜155頁)といわれたほどの専制的な力をふるった(「由来三菱は社長自ら陣頭に立つて事業の全般を主宰し、社務の万般を決裁するのが例となっていた」−−岩崎小彌太伝編纂委員会編『岩崎小彌太伝』96および183頁)。その小彌太自身の権力を温存した三菱の自主改革案はGHQに受け入れられず、前述のとおり結局11月1日、三菱本社は定時株主総会を開き、三菱本社社長の小彌太と副社長の彦彌太(彌太郎の長男で三菱3代目社長久彌の長男)の岩崎両当主の退陣をはじめ、三菱本社を代表した被支配会社役員の総退陣を決めざるをえなかった(1945〔昭和20〕年11月2日付『朝日新聞』−−『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』247頁)。
この三菱本社解体の報告を、「三菱の自発的解体を理由なきものとして拒否し続けた」(『岩崎小彌伝』361頁)岩崎小彌太は東大病院の病床で聞くこととなる。続いて総司令部渉外局は、「1,三菱本社では戦争に関与したことはないと強く否定してゐるが、東条大将が住んでゐた家は三菱財閥から贈られたものである 2,三菱重工業社長郷古潔氏が東条家に対して現金、株式その他によつて総額1千万円を贈与した」等の三菱に関する調査結果を発表した(1945(昭和20)年11月8日付『朝日新聞』−−『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』259頁)。そして「大社長」岩崎小彌太は、同年12月2日大動脈瘤破裂により死亡するが、それはまさしく、“三菱財閥”の終焉を意味するかのようであった(『昭和2万日の全記録』第7巻171頁)。
ここに1870(明治3)年10月岩崎彌太郎により九十九商会として設立された三菱財閥(1893〔明治26〕年7月日本で初めて商法が施行され、会社組織も株式、合資、合名等の法人組織とすることが規定されたので、それに倣い同年12月組織を改め、三菱社から三菱合資会社を設立した。その後三菱合資は、1937〔昭和12〕年12月株式会社三菱社と改組し、1943(昭和18)年三菱社は株式会社三菱本社と改称する)は、その中核会社の解体という形によって一応の終結をむえるのであった。
なお、財閥の本拠を会社組織としたのは、4大財閥の中で三菱が最も早かった。ところで三菱が三井、住友、安田のように岩崎という個人名を使わず、三菱の名称を継続して使用した理由は不明であるが、それは単に、三菱が創業以来社名に岩崎の個人名が使われたことのない伝統に従ったにすぎないと考えられる(三菱創業百年記念事業委員会編『三菱の百年』12頁)。しかしその個人名の使用問題とは裏腹に、会社(事業)の所有と経営を見事に一致させ、その全権を完全に岩崎両家(創業者の岩崎彌太郎家とその弟で2代目社長の岩崎彌之助家の両家、3代目が彌太郎の長男久彌、4代目が彌之助の長男小彌太である)が把握したことに三菱の他の財閥とは異なった特色があった。
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