秋山兄弟のコーナ==⇒動画(好古墓/梅津寺の兄弟の銅像=3分33秒)/好古の銅像/真之の銅像
1859(安政6)年1月7日〜1930(昭和5)年11月4日


明教館(松山東高)の肖像画

静黙=静かにだまっていること/治道=国を治める方法。政治の道
軍人・松山藩士(下級武士)秋山久敬(ひさたか)の三男として愛媛・松山の中歩行(かち)町(現大街道3丁目)に出生。一時教職にあったが、1877(明治10)年陸軍士官学校、1883(明治16)年陸軍大学を経て騎兵科を志す。

復元された生家と銅像(松山市歩行町)−財団法人常磐同郷会パンフより
1887(明治20)年久松定謨(ひさまつ さだこと。1867〜1943;軍人;松山藩主久松【松平】定昭の養子となり家督をつぎ、フランスのサン-シール陸軍士官学校でまなぶ。フランス公使館付武官,近衛歩兵第一連隊長,歩兵第五・第一旅団長などをつとめ、1920【大正9】年陸軍中将)伯爵の補導役としてフランスへ留学。日露戦争で騎兵第一大隊長。後に騎兵学校長となり明治陸軍揺籃期の騎兵科を捜索伝令用だけでなく「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、"騎兵の父"と仰がれた。
日露戦争では、少将として騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵を敵として、育成早々の騎兵集団を駆使して渡り合い、遼陽、奉天会戦で敵の退路をおさえ、陸戦最後のダメ押しで大成功をもたらした。好古45歳のときであった。
この時代に好古は、自分の国家観と人生観を次のように述べている。
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「国家の衰退は常に上流階級の腐敗より起こらないものはない。一家一族は国家の実利を挙げたならば、名刹を放棄して、速やかに閑居する必要がある。これが私の多年の宿論だ。それゆえ、その素志を果たそうとしたことは一再にとどまらない。しかし、いまは事変のため、戦場に赴くことになるだろう」「勝ち戦に驕り(おごり)功名を追えば、敗れる」 |
しかし、日露戦後多くの軍人は、秋山の言とは裏腹に、驕り高ぶりしだいに功名を追うようになり、武力で満州や中国を制圧する暴挙にでた。実際太平洋戦争は、好古が戒めた「勝ち戦に驕り功名を追えば、敗れる」を地でいくようなものであった。
好古のような軍人がもう少し多くいたならば日本は、おそらく別の道を歩んでいたであろうといわれている。
好古はその後、第一及び皇居の守衛および儀仗の任に当たった近衛師団の団長を経て、1916(大正5)陸軍大将(大将は現在でいえば大臣級)、朝鮮駐箚(ちゅうさつ=役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在)軍司令官、教育総監(陸相・参謀総長と並ぶ地位)、軍事参事官の陸軍要職をつとめ、1924(大正12)年予備役になる。
久松伯爵や井上要(かなめ=1865〜1943。明治から昭和時代前期の実業家、政治家。伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などの合併に尽力。松山商工会議所会頭などを歴任し、松山高商の創立にも尽力した)らこわれて当時、「不良少年養成所」とまでいわれていた北予中学(現松山北高)の校長(従2位勲1等功2級の陸軍大将が田舎の中学校の校長になることなど当時として考えられなかったできことであったことから、このニュースは全国を流れた。また生徒たちは、秋山に一目おき、ドイツの軍人、政治家のヒンデンブルグ(Hindenburg, Paul Ludwig von Beneckendorf und von;1847〜1934)にあやかり、「ヒンデンブルグ」というニックネームをつけた)に単身赴任、余生(生涯最後の6年間)を無遅刻・無欠勤で後進の育成に尽くし、1930(昭和5年)11月4日午後7時10分、満71歳の生涯を閉じた。

北予中学時代の好古
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「絶えて、権勢、名刹を望まず、ひたすら騎兵に尽くす |
馬に乗って登校する好古の姿を、松山市民は畏敬と尊敬の眼差しで見つめたが、その生涯は実にさわやかであった。
また、松山高等商業学校(現松山大学)創立者の新田温山(長次郎)とも親交が深かった(長次郎との写真)。
墓所は松山・道後鷺谷(さぎだに)墓地(東京・青山墓地にも分骨)。

「永仰(えいごう=永遠にあおぐ。尊敬する)遺光(いこう=消えないであり続ける光)」の碑は、1932(昭和7)年に松山在郷将校有志等が設立したもの

松山市郊外梅津寺(ばいしんじ)の丘の上に、弟真之とともに銅像が建っている。
伝記に秋山好古大将伝記刊行委員会編『秋山好古』、山中峯太郎『伝記小説将軍秋山好古』等がある。
その他、最新のものとして、生出寿(おいでひさし)『名将秋山好古−鬼謀の人 前線指揮官の生涯』がある。


1868(明治元年)3月20日〜1918(大正7)年2月4日

明教館(松山東高)の肖像画
軍人・ 松山藩士秋山久敬(ひさたか)の五男。松山の中歩行(かち)町(現大街道3丁目)に出生。15歳で上京、実兄好古宅に寄寓(きぐう=一時的に他人の家に住むこと)、やがて親友の正岡子規と東京・神田に下宿する。
1886(明治19)年海軍兵学校に入学、同校を主席で卒業する。日清戦争を経て97年アメリカに留学、近代米国海軍戦術を究め、緻密なシステム思考で海軍有数の戦術家へと成長する。
1899(明治32)年イギリスに駐在、1900(明治33)年に帰国、常備艦隊参謀となる。
日露戦争では、中佐として連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦では遠来のバルチック艦隊を迎かえ、「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げ、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。
松山市・梅津寺

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「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ |
の報告文にみられる海軍きっての名文家としても知られる。
日露戦後、中国革命の父孫文(そんぶん=1866〜1925;三民主義【民族の独立(民族主義)、民主制の実現(民権主義)、地権平均・資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)の三原則】を主唱して辛亥【しんがい】革命を指導。陵墓が中国の南京市の東、紫金山の中腹にある中山稜【ちゅうざんりょう】。なお、「中山」は孫文の号)が日本滞在中に、革命のための資金を調達したのが災いして1914(大正3)年4月17日に軍令部参謀兼海軍大学校教官から就任した軍務局長を1916(大正5)年2月20日に解任される(後任は鈴木貫太郎)。
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真之と孫文との間にどの程度の交渉があったかを示す記録はない。孫文の自叙伝『志さらばついに成る』には、彼を助けた日本人の氏名が紹介されているが、この中にも秋山の名前はない。しかし、1918(大正7)年に秋山真之が、病没した際、当時日本政府の命により箱根に逼塞していた孫文がしきりに葬儀に出席したがったこと、追悼会や納骨式の際に必ず代理人を遣わしたこと、その後も兄の好古、季子(やすえ)未亡人に挨拶を欠かさなかったことから、2人の間に緊密な交流があったことが推察される。 おそらく袁世凱(えんせいがい/ユアン=シーカイ;1859〜1916。中国の軍人・政治家。李鴻章【りこうしよう】を継いで北洋軍閥の首領となり、辛亥革命では革命派と結び、清朝の宣統帝を廃位して臨時大総統に就任して独裁政治を行い、帝政実現を図ったが失敗)政権一派や日本政府の監視の目が憚られる中で軍務局長と言う要職にある真之は孫文との直接接触は避けたに違いないと思われる。 |
1917(大正6)年中将に昇格したが、待命(たいめい=軍人や大使・公使などが、その勤務を免ぜられたあと、新しく他の在外公館に勤務するまでの間待機していること)を受ける。
翌、1918(大正7)年2月4日、盲腸炎から腹膜炎を併発死去する。真之49歳のときである。
墓所は東京・青山墓地。
兄好古は、真之が死んだ4カ月後の1918(大正7)年6月15日に開かれた追悼会の席上次のように述べている。
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「弟真之には、兄として誇るべきものは何もありません。が、しかし、ただひとつ、わたくしから皆様に申し上げておきたいのは、真之はたとえ秒分の片時でも、『お国のため』という観念を捨てなかった、四六時中この観念を頭からはなさなかったということです。このことだけははっきりと、兄としていい得ることです」 |
伝記に生出寿『知将秋山真之』がある。


梅が香や おまえへとあしの 子規真之(しきしんし)(酒井 黙禅) (「おまへとあし」は「君と僕」を松山方言で親しみを込めて表現したもの)
酒井 黙禅-(さかい もくぜん−1883〜1972年)は、福岡県柳川の人、松山赤十字病院長を勤め、俳句は子規の門下、俳誌「柿」を創刊した。
参考文献
秋山好古 秋山好古大将伝記刊行会/[編] 秋山好古大将伝記刊行会
(1936.11)
秋山好古・真之将軍 鶴村松一/著 松山郷土史文学研究会 (1978.12)
名将秋山好古−鬼謀の最前線指揮官の生涯 生出寿/著 光人社 (1988.7)
ロシヤ戦争前夜の秋山真之−明治期日本人の一肖像 (1900年2月-1902年7月) 島田謹二/著朝日新聞社
(1990.5)
ロシヤ戦争前夜の秋山真之−明治期日本人の一肖像 (1902年7月-1904年2月) 島田謹二/著朝日新聞社
(1990.5)