雅樹ちゃん事件-付録60年代の世相

雅樹(まさき)ちゃん誘拐殺人事件

1960(昭和35)年5月16目朝、東京銀座の天地堂カバン総本店社長で世田谷区に住む尾関進さんの長男雅樹ちゃん(7歳、慶応幼稚舎2年生)が登校途中で誘拐され、殺害された事件。犯人から数回にわたり身代金300万円を要求する電話があり、家人が犯人の指定場所に金をもっていったが犯人はあらわれず、19日杉並区上高井戸の路上に乗り捨ててあった自動車の中で死体で発見された。死因はガスによる毒殺。

 自動車の持ち主で同区上荻窪に住む歯科医師本山茂久(32歳)が指名手配され、7月17日大阪・布施市で逮捕された。妻への別居慰謝料や家賃の支払いなど金に困った末の犯行とわかった。

 これまでにも営利目的の幼児誘拐事件はしばしばあったが、殺害に至るのはまれであり、世の怒りをかった。殺害の引き金になった契機が、新聞報道による精神的圧迫であったと犯人の本山が自供したことから、誘拐事件に関する報道(誘拐報道)には、人命優先の観点から作られた自粛協定の遵守が確認され、以後協定は守られるようになった。



60年安保闘争


1960年6月18日--新安保条約自然承認の日--33万人のデモ隊が国会を取り巻いた。


   

樺美智子虐殺抗議追悼1万人集会--60年6月18日日比公園

 1960年6月15日,安保条約反対を叫ぶ全学連主流派が国会に突人,警官隊と激しく衝突し,東京大学文学部国史学科の学生樺(かんば)美智子さん(22)が警宮隊との衝突のなかで虐殺された。

 

 この日の午前中,総評・中立系労組111組合580万入が参加した第2波実力行使が行われたが,大きな混乱はおこらなかった。

 

 事態は,タ方になって急展開した。午後5時20分ごろであった。参議院第2通用門付近にいた全学連反主流派と労組,新劇人などのデモ隊に対して,右翼の児玉誉士夫率いる維新行動隊が突人したのである。右翼の行動隊は女性参加者の多いデモ隊をねらって襲いかかった。信じられないことであるが,警官隊は右翼の行動を放任した。右翼は警官隊の目の前で,女優たちに暴行の限りを尽くしたのである。

 一方,この日約8,000人を動員して国会へのデモを行っていた全学連主流派は,右翼による暴行事件発生の知らせを国会南通用門付近で聞き激怒,5時50分,国会への突入を開始した。

 

 警備に当たっていた警官隊は放水車2台で学生に応戦し,約20分に及ぶ攻防戦の結果,一度は学生を構外に押し出したが,再び衝突がおこり,7時10分,約4,000人が国会内に再突人した。この衝突の中で樺さんが殺されたのである。学生は国会の中庭を占拠し,警察に対する抗議集会を開くなど気勢を上げた。

 

 午後10時7分,実力排除を開始した警官隊は,逃げる学生を後ろから警棒で乱打し,10分ほどで全員を外に押し出した。降りしきる雨で足をとられる負傷者を手当たりしだいに捕まえ,救急車で応急手当をしたのち,護送車に送って逮捕していった。

 

 門外へ押し出されたデモ隊には再突入の力はもはやなく,ただ国会を取り囲むのみだった。ところが16日末明,警官隊はさらに催涙弾を発射し,警棒を持ってこれらの人々に襲いかかったのである。

 

 このときの様子は,「警官隊によっていま,…首をつかまれております。いま実況放送中でありますが,警官隊が私の顔を殴りました」という,ラジオ関東(現ラジオ日本)島碩弥(ひろや)アナウンサーの叫びによって生々しく伝えられる。一連の衝突で死者1人,負傷者は重傷者43人を含め589人にのぼり,また逮捕者は182人を数えた。

 

 樺美智子さんが死亡したのは7時10分から15分ごろと推定される。家族の希望で解剖を行った医師は,「眼にひどいうっ血があった。これは首を強くしめつけられたため。ひどいすい臓出血は上から踏みつけられたもの」と述ベ,警官隊の暴行による死亡を示唆した。


1960年6月16日、国会デモ中の大学教授団に警官が暴力を振るい多数の重軽傷者が



安保条約自然承認を前に、「国会へ行きましょう」と呼びかける東大学生のビ


浅沼 稲次郎暗殺

           

 1960年10月12日選挙のため東京選挙管理委員会などが東京・日比谷公会堂で開らいた自民,社会,民社の3党首立会演説会で,社会党の浅沼稲次郎委員長(61歳)が17歳の右翼少年(大東文化大学1年生・陸上自衛隊1等陸佐の次男)に刺されて死亡した。

 

 この模様は、テレビで全国に中継されており,全国民の眼の前で起こった右翼のテロは,民主主義の危機として大きな衝撃を与えた。

 

  浅沼委員長は,演壇に立ち右翼の野次や妨害のなかで演説を行ったが,演説が終わりに近づき「議会主義の擁護」を訴えていた午後3時5分頃,突然刃渡り35cmの短刀を持った少年が演壇にかけ上がり,体たりをするように浅沼の胸を刺し,さらにもう1度刺した。

 

 浅沼委員長は近くの日比谷病院に運ばれたが,3時40分絶命した。 犯人は全アジア反共青年連盟に属し,大日本愛国党(総裁赤尾敏)の思想的影響を受けた右翼少年だった。警視庁での取調べののち,練馬区の東京少年鑑別所に送られた少年は,11月2日,単独室で首つり自殺し,事件の背後関係はうやむやのままになった。



60年安保闘争にかかわった学生の間で広く口ずさまれた)

(詞 水木かおる・曲 藤原秀行)

アカシヤの 雨に打たれて
このまま 死んでしまいたい
夜が明ける 日が昇る
朝の光の その中で
冷たくなった 私を見つけて
あのひとは 涙を流して くれるでしょうか

アカシヤの 雨に泣いている
切ない胸は わかるまい
想い出の ペンダント
白い真珠の この肌で
淋しく今日も 暖めてるのに
あのひとは 冷たい眼をして
どこかへ消えた

アカシヤの 雨が止むとき
青空さして 鳩がとぶ
むらさきの はねのいろ
それはベンチの 片隅で
冷たくなった 私の脱けがら
あのひとを 探して遥(はる)かに
飛び立つ影よ


この年の流行語⇒三種の神器

1950年代後半から60年代前半にかけての第1次高度経済成長期において急速に普及した白黒テレビ・電気洗擢機・電気冷蔵庫の三つの耐久消費財を三種の神器(じんぎ)という。天皇の位の証(あか)しとされる三種の神器である八咫(やたの)鏡・草薙(くさなぎ)剣・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)になぞらえて、テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は家庭になくてはならない大切なものとの意味を込めて表現された(なお三種の神器に電気掃除機を加えて4大家電製品ともいわれた)。

中でもテレビは、当時の庶民の憧れの的であり、豊かな生活象徴が、屋根の上のテレビアンテナであった。日本人はみな、より豊かな生活を求めて一生懸命働き、日本経済は高度に成長した。なお、1955年当時、都市銀行の行員の給料が1カ月平均12,000円に対して、テレビは7万円(現在の金額で100万円以上)もした。


三C(さんシー)

 カラーテレビ(Color TY)、乗用車(Car)、ルームクーラー(Cooler)のことで、英語の頭文字が三つともCであることから、こう呼ばれた。「三種の神器」に対して「三C」は、60年代半ば(昭和40年頃)から70年代前半までの第2次高経済成長期に普及した耐久消費財の代名詞。 『三種の神器』は「神武景気」・「岩戸景気」をバックに『三C』は「いざなぎ景気」をバックに普及した。両者とも日本経済の高度成長にもとづく高度大衆消費社会の創出に大きな役割を演じた。
 
だが、「三C」が「三種の神器」と大きく違うのは、乗用車・ルームクーラーにみられるように、エネルギー多消費型の商品であり、かつ大気汚染型の商品だという点である。なお、その後「三種の神器」「三C」に次ぐほどの耐久消費財は出現していない。

 なお、1966年、結婚退職制に対して初めて東京地裁が違憲判決を出した。また、1967年の国民白書は、「国民の9割が中流意識」と記した。


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