虚無の信仰−西欧はなぜ仏教を恐れたか、R・P・ドロワ、島田・田桐訳、トランスヴュー、2002年5月   出版社


この本は、下に挙げてあるようなオランダを扱う本ではありません。そうではなく、19世紀に、仏教が ヨーロッパの知識人たちからどう見られたか(正確に言えば歪められたか)を論じたのがこの本です。 これは、研究と滞在地オランダに直接関係する以外で僕が持参したただ一冊きりの本なのですが、選んだ のにはわけがあります。以前、ひじょうに間接的な形ながらヨーロッパで、キリスト教の説く道徳を信じ ない者は人間ではない、というような扱いを された経験が下敷きになっているのです。この本のテーマも、ヨーロッパの論理で理解できないものはあっ てはならないという西洋中心の物の見方であり、また、異文化を理解するのは至難の業だということ です。なので、直接的には留学と関係しないながら、間接的には日々痛感させられそうな現実とつながっ ていると直感したわけです。

もう少し具体的に内容を紹介しましょう。仏教が霊魂の消滅を願うがゆえに「虚無への信仰」だとされ、 言語道断だとして非難された歴史を現在の西欧知識人の目で考察したのがこの本で、フランスでベストセ ラーにまでなったそうです。つまり、西洋人の他者理解の限界を、オリエンタリズムに通じる手法で西洋 人自身が論じた本です。仏教が虚無信仰だと決めつけられた理由は、それの理想とする涅槃(ニルヴァー ナ)が、すべての煩悩から解放されて物事をただあるがままに受け容れるという(つまり西洋に特有の主 体客体の区別の消え去る)解脱の境地を説いていることが、西洋人には理解できなかったからなのです。

以前にもどこかで書いたことがあるのですが、われわれには「無心」ということばはお馴染みです。特に スポーツ解説などによく登場し、例えば野球で言えば、ピッチャーがどんなタマを投げてきそうか予測を めぐらし、それへの対策を立てるという風にやるのではなく(「無心」の立場 からすればそれは「邪心」にすぎません)、対応策などは何も考えず、ただもう来た球をはじき飛ばすこ とだけに精神を集中した方がうまくいくものだ、というくらいのことを、この「無心で行け」は表して いるにすぎません。ごくごく合理的な、どこにも神秘的な要素のない表現で言えば、集中力の方が、あ れやこれやの作戦よりも力を発揮するということにすぎないのです。しかし、ゲームなどは騙し合いに ほかならず、万能薬などはないのだとくり返し言い聞かせられてきた者にとっては、こんな高尚な境地 (=一種の悟り)は理解を越えています。なので即座に「それは思考の停止だ」とか、そもそも「打 ちたいという意欲の停止だ」とかの、お門違いの非難を浴びせることになるのです。

実際、涅槃の境地は常人には分からない、悟りを開いた者にだけ分かるものだとされた、だからことばの 面でも常人のものでは表現できないとされたことが、西洋の知識人たちの反発を呼んだらしいのです。 それは多分、すべてを理解し尽くさないと気が済まないし、またそうできているハズだと信じた彼らのプ ライドを傷つけたのでしょう。ともかく反発はすさまじく大きかったようです。

でも、理解しようという気さえあれば、言われていることはそんなに西洋の伝統とかけ離れているわけ ではありません。再度スポーツの例を出すのですが、勝敗にあくまでこだわって、○○に負けてしまった というようなことばかりを気にしている者には、「勝敗は問題ではない。最善を尽くすということが、 さらにはゲームを楽しむことが大事だ」といった高次のスポーツ観は理解できないというのと似ています。 ところが、西洋のスポーツ選手、この手のスポーツ観をよく披露するのではないでしょうか? またオリ ンピックについても「参加することに意義がある」ということばがある。ではありますが、まあ、勝ち負 けにこだわってばかりいる頭に、それを超越した境地が分からないのは事実でしょう。でもだからといっ て「それは熱意の放棄だ」とか、「スポーツの自殺行為だ」とかの断罪は成り立たないはずなのです。

要するには「無我」の境地が問題なのです。これは、我(が)にこだわり続ける西洋にはひじょうに理解し にくいものらしい。だから最後には、「負け犬の論理だ」など、さらには「衰弱しつつある者のリクツだ 」だのの極論まで登場し、それに対してニーチェが強烈な反感を表明するということまで行ったらしいです。

全然系統だって内容を紹介できていないのは重々承知なのですが、そんなことができる本ではありません。 内容は高密度です。逐一紹介などしたら、すごい分量を書かねばなりませんし、多分僕の知識のボロが出て しまうことでしょう。だから、ほんの断片をほのめかしで書く以外にありません。

上に「日々の留学生活でイヤというほど感じさせられそうな」と書いたことは、例えばこんなことと関係 します。われわれは、何かトラブルが起こると、自分に責任があるかに関わりなく、「すみません」とつ い言ってしまいます。理由は相手に不愉快な思いをさせてしまったからであり、だとしたらまず謝るの が日本の文化だからです。それを一々、「謝るからにはやましいことがあるに 違いにない」と決めてかかられたらどうでしょう? せっかく対立をなくし、「調和」にもっていこうと しているこちらの努力はもう完全にブチ壊しですよね。さらに追い打ちをかけて、「悪くもないのに謝る なんて奴隷根性である」とか、「悪くないならたとえ好意からにせよ謝るべきではない。それは正邪をは っきりさせることの妨げになる」だのと言われてしまっては、もう異文化を痛感させられるばかりです。 こちらが、「正邪をはっきりさせる」ことよりも、とげとげしくならないことを優先しているという、 つまり白黒はっきりさせることより争いを避けることを重んじているという、 まさにその価値判断そのものが全然理解されていないと痛感させられる。 「正邪をはっきりさせる」というやり方が万国共 通であるに「違いない」、と勝手に決めつけられていると痛感させられるわけです。

最後にもう一つだけ、お馴染みのことを書いておきましょう。それは、われわれは他者を非難するに 際し、常に自分の内にある、こう言うと多少語弊がありますが「やましさ」を、もうちょっと中立的に言 えば「問題点」を、
もっぱらそれだけを問題にする傾向があるということです。 この本の内容に即して言えば、仏教に向けられた非難のほとんどが、19世紀にヨーロッパが自ら問題と感 じていたことを、そのまま仏教になすりつける内容だったということ、それも保守的な層が、秩序に反すると眉を ひそめて見ていた内部の動きと完全にダブるということです。信仰の衰退、民主主義の進展、混血による「優良人種の 力の衰え」などがその内容です。
オオカミ自体は悪くないのに、人間の中にひそむ残忍さを勝手にオオカ ミになすりつけて悪者に仕立てたという、推薦図書で説明している現象がここでも起こっているんですねー。まさに、自分 が写る鏡として他者が利用されているわけです。鏡がダシに使われてはいますが、誰も鏡自体には関心 なんかありません(つまり仏教が相手とされているようでいながら、誰も本当にそれを理解しようなんて していません)。あくまで、写る自分にこだわるだけ。そして、みにくい自分が写っているのを発見 したら、それは鏡が悪いことになる! 興味のある人、かなり手強いですが読んでみて下さい。