普仏戦争と鉄道
1870年夏、ドイツ統一を進めるプロイセンと、強国ドイツの出現を望まないフランスの対立が深まり、普仏戦争が勃発した。プロイセン軍は快進撃を続け、独仏国境のロレーヌ地方の町スダンでナポレオン3世の率いる仏軍を包囲し、降伏させた。フランス第二帝政は瓦解し、パリで臨時政府が成立した。勝利したプロイセンはドイツ諸邦を招集し、1871年1月にパリのヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の成立を宣言する式典を行った。
この戦争では、初めて鉄道が軍事目的で使われた。フランスはまだ騎兵重視だったが、ドイツ軍は兵士や武器・弾薬の輸送に鉄道を最大限に利用した。ドイツは国がまだなく、各領邦がばらばらに鉄道網を発達させていた。他方でフランスは、パリを中心とする放射状の幹線をもっていたが、戦場となった国境地方で鉄道網が発達していたのはドイツであった。ドイツ軍が鉄道を使って兵士と武器・弾薬を迅速に動かして勝ったことに世界は注目し、その後の戦争では鉄道をどう使うかが鍵となった。フランスも鉄道の不備で戦争に負けたことを認め、第三共和政は本格的な鉄道網の拡大に努めた。
戦争に負けたため、フランスはロレーヌ地方の一部とアルザス地方をドイツに割譲した。ドイツはこの地方の鉄道を、ドイツ流に右側通行に改めた。フランスがこの地方を回復した後もなぜか右側通行だけは残り、現在でもこの地方では鉄道が右側を走っている。
フレシネ計画と鉄道網の拡充
第三共和政のフランスは、ブーランジェ事件やドレフュス事件などの危機はあったが、基本的に安定していた。1880年には鉄道の総延長が2万3,000qを超えた。しかしまだ引かれていない地方も多く、地方の人々は増設を強く望んだ。1877年〜1879年の公共事業大臣フレシネは、在任中に8,800qを新たに引くフレシネ計画を立てた。しかしローカル線は赤字が多く、また1882年に発生した恐慌のあおりで、計画の一部は中止された。
政府は次の策として、赤字ローカル線を引き受けさせるために、1883年に6大私鉄会社と協定を結んだ。その中で政府は、建設費の補助・利子補給・株式配当の最低保証などを約束した。これにより鉄道網は大きく拡充され、1900年にはフランスの鉄道総延長は3万8,000qを超えた。フランスは、最先進国イギリスの3万qを抜いたが、ドイツの鉄道延長5万1,000q超には及ばなかった。 |

2-1 アルザス:右側走行 |

2-2 一般:左側走行 |