第1章 縄文時代―採集、狩猟と漁労



ほとんど東日本に集中

縄文時代の人々は、一箇所に住み、採集・狩猟・漁労をして暮らしていた。この時代の人々は土器を使用したが、これは世界で最も早いと言われている。

日本列島は氷河期が終わって形成された。暖かくなって海面が上昇し、低い陸地が海に沈んだからである。このとき、寒帯の針葉樹林は北に移り、代わって広葉樹林が広がった。縄文時代の東日本は、櫟(くぬぎ)・栗・栃(とち)・楢(なら)など大粒の木の実がとれる落葉広葉樹林帯であった。餌が豊富なため、イノシシなど多くの中小動物が棲んでいた。また河川では鮭や鱒(ます)などが採れた。他方で西日本は、樟(くす)・樫(かし)・椿(つばき)など木の実が充分でない照葉樹林帯であった。人々はイモ類や球根などを食べていた。こうした理由から、この時代の日本の人口は食料の豊かな東日本に集中した。例えば、縄文中期の日本の人口は約26万人であったが、その96%以上が東北や関東、中部地方など東日本に集中した。近畿や中四国、そして九州地方の人口は、足しても4%に満たなかった。
  
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木の実と土器

縄文時代の人々は、鳥獣や魚介も食べていたが、どんぐりなどの木の実が中心であった。エネルギーの80%は木の実など植物性食料に依存した。余った木の実は地中に穴を掘り貯蔵した。木の実を食べていたため、縄文人はでんぷん摂取量が多く虫歯が多かった。平均寿命は20才くらいと予想されるが、乳幼児の死亡率が高かったからで、生き延びた人は50才くらいまで生きたと考えられる。室町時代とあまり変わらない良い栄養状態であった。

木の実は、食べる前に土器を使ってあく抜きがされた。その後それらは深鉢土器で茹でるか、熱した石で焼いて食べた。土器を使用することにより、脂肪分などの栄養分を保ちつつ、様々な材料を混ぜて煮込んで、複雑な味を出すことができた。さらに煮沸により、硬い食材もやわらかくすることができた。普通の食事は手食であったが、熱い汁ものの料理には土器のスプーンが使用された。

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縦穴住居、貝塚

縄文時代の人々は、一定の場所に集落を作り、家族とともに竪穴住居で暮らした。なかには、青森県の三内丸山遺跡のように500人もが暮らした巨大な集落も存在した。三内丸山遺跡には周りに大きな栗林があり、この栗林のクリのDNAが均一である事実から、栗が栽培されていたことが分かった。また縄文時代中期には焼畑農法が伝来し、豆類などの初歩的畑作が行われたが、これが食の中心になることはなかった。

貝塚はこの時代にゴミ捨て場として利用された。東京湾岸などには、ごみを含まない大型の貝塚が見つかったが、ハマグリなどの干し貝を製造する加工場の跡である。また地域間の交易も盛んで、青森県の三内丸山遺跡では北海道の黒曜石・新潟県の翡翠・岩手県の琥珀、秋田・山形県方面のアスファルトが出土している。地域間の交易のネットワークは海外にも広がっていて、朝鮮半島やシベリアで縄文時代の日本の黒曜石が出土している
 
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