第4章 近代―フランス革命以後
 
レストランの登場
フランス革命は、王政や宮廷貴族に対して大打撃を与えた。そのため、王政時代に宮廷や貴族に雇われていた料理人は、王や貴族の没落によって職を失った。このことが、二つの変化をもたらした。彼らが他国の王侯貴族や大富豪に雇われたことで、フランス料理がヨーロッパ中に広まったことが一つであり、もう一つは、多くの料理人が街に出てレストランを開いたことであった。

レストランの数は、革命前には50軒ほどだったが、革命後の1815年には3000軒に増えたといわれる。また料理人は、宮廷や貴族の館で作っていた宴会料理を工夫することを求められた。レストランの主な客は、社会的に成功しつつあった実業家(ブルジョア)だったからである。彼らの生活スタイルに合うよう料理を工夫した。革命後はパリが政治、経済、産業の中心となり、多くの人が流入した。地方から議員や役員が来ることも多く、レストランは重宝な食事場所になった。

パリには、高官や富豪のための高級なレストランから、中流や下流の人々のためのレストランまで、多数が開店した。レストランはただ食事の場所としてではなく、社交の場所としても用いられた。上流階級の女性はそれまで公衆の面前で食事をすることはなかったが、男女がそろってレストランで食事をする風習ができ、女性が新しいドレスを見せびらかす場にもなった。ヨーロッパ各都市でもレストランが次々と開店した。

右の写真: 1802年創業の老舗レストラン カフェ・アングレ(1913年閉店)
http://en.wikipedia.org/wiki/Caf%C3%A9_Anglais_%28Paris%29


2人の革新者
フランス料理はますます洗練されていったが、それに大きく貢献した人物がアントナン・カレーム(1784-1833)とオーギュスト・エスコフィエ(1846-1935)である。

アントナン・カレームは、料理の見栄えを重視し、フランス料理を芸術の域にまで引き揚げた。ソークルと呼ばれる装飾をほどこした台の上に、串を使って料理を建築物のように立体的に盛り上げ、色彩も工夫して人々を驚かせた。カレームはフランスの外務大臣タレーランの料理人で、ウィーン会議において大活躍した。タレーランは、カレームの料理を武器に、会議を敗戦国フランスに有利な方向に向けようとしたのである。しかし、カレーム流の料理は社会の変化に合わなくなり衰退していった。 

19世紀末から20世紀にかけて、オーギュスト・エスコフィエは大ホテルの厨房で働きながら、社会の新しい動向に合うような料理を作り上げた。レストランのよき後援者であった成功した実業家たちは、宮廷料理のような重く時間のかかる料理ではなく、実質的で質の高い料理を求めた。そこで彼は調理法を簡素化し、装飾性を排除し、素材の風味と栄養価を重視して、消化しやすい料理を提供した。彼はまた、厨房において作業を効率的に分担した。その結果、それまでは夕食のディナーの注文は前日か当日の朝にされるのが普通であったが、彼の改革以降は、客の注文を受けるとすぐに料理が出せるようになった。


カレーム
日本語wikipediaより

エスコフィエ
日本語wikipediaより

交通とミシュラン
19世紀末には鉄道を中心に交通網が発達し、国際的な大ホテルが主要都市や観光地に作られた。ホテルが提供する料理は、街のレストランを凌ぐほど高級であった。 
20世紀も進むと、主要な交通手段は自動車に移った。フランスのタイヤメーカーであるミシュランが、ヨーロッパ各地のレストランの料理を調査し、結果を毎年星の数で評価し、公表するようになった。3つ星はわざわざ食べに行くに価する店であり、2つ星は遠回りしてでも立ち寄るに価する店であり、1つ星はその土地の極めて優秀な店である。ミシュランに取り上げられることは、今でもレストランにとって非常な名誉である。

20世紀初期にはロシア式個人別サービス形式が普及し、今日のフルコースの形が確立した。欧米の王室、富豪や大ホテルは、フランスから料理人、スイスから菓子職人、オーストリアからパン職人を招くようになった。

右の写真:ロシア式フルコースの例
http://plaza.rakuten.co.jp/ponpokop/diary/200807050000/

ジャガイモ
中世末期に新大陸から到来した新しい食材の中で特にジャガイモは、農村の穀物不足を解消しただけでなく、高級料理にも取り入れられ、短冊形の揚げジャガイモ(フレンチポテト)はフランス、イタリア、イギリス、アメリカなどで日常的に必須の食べ物であり、ドイツやアイルランドなどではジャガイモは主食の位置にある。またトマトも、イタリア料理には欠かせない食材になった。

19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパの国々は、自分たちが消費する食料を世界中の植民地で生産させ、輸送させるようになった。その結果、穀物や食肉などが海外から安く大量に供給されるようになった。19世紀末に、ヨーロッパの人口は急増したが、これらのおかげで、19世紀前半のような食糧危機は起こらなかった。

食生活の変化
工業化は、一般庶民の収入をも徐々に押し上げ、穀物中心の食生活から動物性食品へと、食生活が変化していった。フランス人の平均カロリー摂取量は、18世紀末には1日約1700キロカロリーであったが、19世紀末には2800〜3000キロカロリーに達した。近世以来、都市の下層市民の間では安い蒸留酒をがぶ飲みするという悪癖が見られたが、それも姿を消し、ワインやビールのような健全な飲料に代わった。          (矢 原)