歴代有名選手 30人 (名前をクリックすると、写真が出ます)

  名前 国籍 W杯出場 説明(担当)
フェレンツ・プスカシュ ハンガリー/スペイン 54, 62 ハンガリー出身でポジションはフォワード。テクニカルでパワフルな左足を持ち、「左足の魔術師」と呼ばれた。1950年前半から4年間無敗を続けた「マジック・マジャール」の主将として活躍した。W杯スイス大会予選リーグの西ドイツ戦で、プスカシュは故意のファウルにより負傷。その後も怪我をおして出場したものの、イギリス人主審の不可解な判定(直前の親善試合でハンガリーはイングランドを2度大差で破っていた)により、3-2で敗北した。これにより、マジック・マジャルの不敗神話は終わった。
ハンガリー動乱で国内リーグが中止してから、プスカシュはプレーの機会を求めてスペインに亡命するが、ハンガリー政府の圧力で、2年間の公式戦出場停止処分を受けてしまった。処分が明けた1958年、スペインの名門レアル・マドリードに加入し、ディ・ステファノらと共に第1次黄金時代を築いた。1966年に39歳で引退し、その後世界各国で監督を歴任した。1971年にはギリシャのパナシナイコスを率い、欧州チャンピオンズカップの決勝まで導いたが、オランダのアヤックスに惜しくも敗れ準優勝となった。
(千葉)
ペレ ブラジル 58, 62, 66, 70 ペレは「サッカーの王様」と呼ばれており、数多いフットボールプレイヤーの中でもとりわけ特別な存在である。その170センチという小柄な体に秘められた抜群な身体能力と完璧なボールテクニックは、観客やチームの経営者などを魅了し、1966年のナイジェリアでは、彼のプレーを見たいがために、当時国内で勃発していた内乱を一時中断させるほどであった。 (曽我部)
ボビー・チャールトン イングランド 62, 66, 70 ボビー・チャールトンは、17歳でイングランド・プレミアリーグに属するマンチェスター・ユナイテッドに入団した。その2年後、エースだったトミー・テイラーの骨折によってチームの中心選手となった。1958年2月6日、欧州チャンピオンズカップの移動中に、飛行機事故で多くの仲間を失ってしまうが、ボビーは奇跡的に命をとりとめた。10年後の1968年に、この時逃した欧州チャンピオンズカップのタイトルを手にした話は有名である。W杯には3回出場し、特に自国で開催した66年には、イングランドが初優勝するのに貢献した。それが認められ、1994年にはナイトの称号を授かる。 (藤井)
エウゼビオ ポルトガル 66 エウゼビオは「黒豹」と呼ばれており、その名どおりの瞬発力と強烈なシュートで得点をあげるプレーヤーだった。彼が引き起こしたフットボール史上に残るエピソードに、1966年のWカップの準決勝戦における北朝鮮戦がある。前半0対3でポルトガルが負けていたのに、この劣勢から、前半27分、42分、後半56分、そてその直後の59分と、彼1人で4連続得点をあげ、試合をひっくり返してしまったのである。 (曽我部)
フランツ・ベッケンバウアー 西ドイツ 66, 70, 74 ドイツでは最も有名なプレーヤーで、ペレやマラドーナと同格の選手であるとされている。プレイスタイルとして、守備的なポジションの統制を受け持ちつつ、チャンスには攻撃にも積極的に活躍するという、いわゆるリベロの役割を確立させた人物である。さらに自身は監督とキャプテンの二役をこなし、フィールド内外からチームを取りまとめていたことから「カイザー(皇帝)」と呼ばれている。 (曽我部)
ゲルト・ミュラー 西ドイツ 70, 74 ゲルト・ミュラーは、70年代「爆撃機」と呼ばれていた。その異名は、誰よりも多く敵のゴールを撃破した事実に由来している。どんなボールだろうと、どこにいても、どんな体勢でも身体のどの部分を使ってでもゴールを決めた。ドイツの連邦リーグであるブンデス・リーガで、65〜79年にかけて得点王を7回、365ゴールという脅威の数字を残し、当時の歴代ゴール数2位の268得点を大きく離し、20世紀最高のストライカーとなった。(高橋)
ヨハン・クライフ オランダ 74 類まれな戦術理解度と身体能力を武器に、状況に応じてFW、MF、はたまたリベロまでこなした選手である。クライフターンというフェイントを生み出したほか、トータルフットボールというフットボール戦術を体現する最高のプレーヤーであった。この戦術の実現のためには、選手一人一人が高い能力をもっていることに加え、全員をひとつの渦のように動かすことができるような、高い統率力や戦術眼を備えたキャプテンが必要であった。彼は、その渦をコントロールする役割を演じていた。 (曽我部)
パオロ・ロッシ イタリア 78, 82 パオロ・ロッシは、1977年にイタリア・セリエAに昇格したばかりのビチェンツァで、24ゴールを挙げて得点王になった。その翌年、W杯アルゼンチン大会の代表に選ばれる。順風満帆だった彼だが、その後八百長疑惑によって2シーズンの出場停止処分を受けた。しかし、1982年のW杯で見事な復活を果たす。イタリアにとっては実に44年ぶりとなるW杯優勝に大きく貢献し、自身も6得点を挙げ得点王となる。その後、怪我により29歳で引退している。 (藤井)
ミッシェル・プラティニ フランス 78, 82, 86 ミッシェル・プラティニはフランスサッカー界が生んだ偉大なプレイヤーである。「将軍」と呼ばれた彼は、中盤の司令塔でありながら、ゴール感覚を兼ね備えた優れたストライカーであった。78年アルゼンチン大会から3大会連続でW杯に出場した。優勝の栄光を勝ち取ることはできなかったが、地元フランスで開催されたEuro84年(欧州選手権)では、全試合で得点をあげる活躍で優勝に貢献した。中盤のプレイヤーでありながらの9得点は、驚異的な数字である。世界を代表するナンバー10、攻撃的MFとして一時代を築いた。87年に32歳の若さで現役を引退した。 (池田)
10 ジーコ ブラジル 78, 82, 86 ワールドカップでは3大会に出場。1982年のスペイン大会では,、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとともに「黄金のカルテット」として活躍した。このときのチームは、ブラジルサッカー史上最も魅力的なチームであったと言われている。彼は、パスの正確さとブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、スルーパスとフリーキックを得意とした。2002年にサッカー日本代表チームの監督に就任した。(森)
11 カールハインツ・ルンメニゲ 西ドイツ 82, 86 世界で最もサッカーが盛んなヨーロッパ。そのヨーロッパで「ミスター」と呼ばれたプレーヤーがいる。それが、カール=ハインツ・ルンメニゲである。そのプレーすべてが、強いドイツの象徴だった。驚異的な肉体と、その世代でも最高レベルのヘディングの強さ、そして圧倒的な存在感を誇る。元々は右ウイングの選手だったことからもわかるように、決して高さだけの不器用な選手ではない。力も、高さも、速さも、巧さも持っていた。現在はバイエルン・ミュンヘンの副会長として、相変わらずドイツ・サッカー界を引っ張り続けている。なお、弟のミヒャエルは、一時期Jリーグに所属した。 (猪上)
12 ロジェ・ミラ カメルーン 82, 90, 94 82年、90年、94年のカメルーン代表選手。アフリカ人で初めて三度のW杯出場を果たした選手である。90年に出場したとき、彼は38歳だった。この大会で彼は4ゴールを決め、カメルーンを準々決勝進出まで導いた。94年、アメリカ大会で42歳の彼は1得点を挙げた。この記録は、W杯における最年長得点記録として残っている。 (菊池)
13 ディエゴ・マラドーナ アルゼンチン 82, 86, 90, 94 ディエゴ・マラドーナは、アルゼンチンが誇る天才プレイヤーである。ドリブル、シュート、パスといった技術の完璧さと、卓越した戦術眼を兼ね備えた理想のプレイヤーだ。彼は1982年のイタリア大会から4大会連続でW杯に出場し、86年のメキシコ大会ではチームを優勝に導いている。この大会の準々決勝ではイングランドの選手を5人抜きし、ゴールを決めている。これはマラドーナの名プレーの中でも1番のプレーといえる。(水口)
14 ローター・マテウス 西ドイツ 82, 86, 90,
94, 98
「闘将」と呼ばれドイツの黄金期を支えた、サッカー史上屈指のファイター。W杯に5大会連続出場や、W杯出場試合数の最多記録である25試合、さらには代表試合出場歴として世界最多記録である150試合など、数々の前人未踏の記録をもつ。
元々は的確な判断と正確なミドルパスでゲームメイクするMFであったが、選手生活の晩年にはリベロへとポジションを下げ、39歳まで代表の10番を背負い続けた鉄人。常に味方を鼓舞し続ける精神的支柱であった。ドイツ代表チームの栄光は、マテウスなくして語れない。 
(松下)
15 ルート・フリット オランダ 90 ルート・フリットは、細い三つ編みのようなドレッドヘアーが特徴の、オランダのスーパースターである。体格が良く、シュート力、ヘディング力と素晴らしい選手だが、その体格に似つかわしくないソフトなボールタッチは、チームに大きな影響力を与えた。また、オールラウンダーであり、FW、MF、時にはリベロもこなす器用さを持っていた。80年代後半に、イタリア・セリエAに属するACミランの黄金時代を支えた。さらに、オランダ代表を88年Euro(欧州選手権)優勝に導いた。(池田) 
16 マルコ・ファンバステン オランダ 90 度重なる怪我で選手生命は長くなかったが、すべての要素が揃っていたストライカーであった。その天才的なプレースタイルは他の追随を許さず、欧州最優秀賞=バロンドールの栄冠に3度も輝いた(最多タイ)。80〜90年代初めの中で最高のFWと称され、「神は8日目にマルコを創造した」とまで言わしめた。2004年からは、祖国オランダ代表の監督に就任している。 (川井)
17 ドラガン・ストイコヴィッチ ユーゴスラヴィア 90, 98 鋭いドリブルやフェイント、正確なパス、完璧なフリーキックが武器のストイコビッチは、マラドーナの後継者といわれた。しかし、92年ヨーロッパ選手権では、セルビアへの制裁措置として「国際試合禁止」が言い渡されたため、国際舞台から閉め出された。さらに怪我も重なり、将来に失望した。94年、Jリーグの名古屋グランパスに入団するが、その彼のもとに「制裁解除」が知らされる。98年のW杯では、ユーゴスラヴィアの出場に貢献する。その華麗なプレーから、「妖精(ピクシー)」と呼ばれている。 (山内)
18 ロマーリオ ブラジル 90, 94 1980年代後半〜90年代を代表するストライカーで、小柄ながらも卓越したポジショニングと勘の鋭さでゴールを量産した。その常人離れしたプレーぶりは、魔法使いと評さる。問題児としても有名であったが、その気質も愛されて、ブラジルをはじめとして人気が高い。1994年のアメリカ大会では5得点を上げ、ブラジルの24年ぶり4度目の優勝に大きく貢献し、この年の世界最優秀選手に選ばれた。(森)
19 ロベルト・バッジョ イタリア 90, 94, 98 「イタリアの至宝」と呼ばれ、世界一のファンタジスタである。スピードとテクニックを兼ねそろえた重心の低いドリブルと,、ボールコントロール、得点感覚を持っている。1988年のイタリア・サッカー協会の設立90周年を祝って開催された親善試合でデビューし、1993年には、FIFA年間最優秀選手賞と欧州西遊賞のバロンドールという2つの賞を取った。イタリア・セリエAでの通算205得点は、セリエA史上5人目で、歴代単独5位である。イタリア代表として56試合出場し、27ゴールを決めた。2004年に現役を引退した。 (佐伯)
20 フリスト・ストイチコフ ブルガリア 94, 98 身体的才能に恵まれたブルガリア・サッカー界の「王様」。7歳から12歳までは陸上100Mの選手として活躍し、国内のチャンピオンに輝いたこともある。屈強な上半身と鋼のような両足を持ち、テクニックにも優れる。さらにはスピードまで持ち合わせた完全なプレーヤーだった。左足からくり出される速く正確なシュートが武器だった。
グラウンドの上では常に好成績を残し、91/92シーズンには、UEFAチャンピオンズカップで優勝を経験。当時所属したスペインのバルセロナに大きな功績を残した。ブルガリア代表としては94年のW杯で6得点を記録。それまで国際舞台で実績のなかった母国をベスト4に導き、自らも得点王に輝いた。その後、Jリーグの柏レイソルでも活躍した。
 (猪上)
21 ガブリエル・バティストゥータ アルゼンチン 94, 98, 02 1990年代におけるアルゼンチンを代表するスター。イタリアのセリエAで、類まれな得点能力を持つストライカーとして活躍し、豪快な「バティ・ゴール」と呼ばれる豪快なゴールを量産した。1993年、所属チームのフィオレンティーナが2部に降格した際には残留を表明し、フィレンツェの英雄と称えられた。翌シーズンにはチームもセリエAに復帰し、得点王にも輝く。2005年に惜しまれつつも現役引退を表明したが、監督としての復帰を望む声も多い。 (川井)
22 ロナウド ブラジル 94, 98, 02 ロナウドは「20世紀最後の怪物」と呼ばれ、ストライカーとしての完璧な技術と才能は「王様」ペレに匹敵すると評されている。94年のW杯から3大会連続で出場し、98年のフランス大会ではコンディションが悪いながらも、4得点を挙げ、チームを決勝まで導いた。2002年の日韓共同開催となった大会では、決勝戦の2ゴールを含む8得点を挙げ得点王に輝いている。決勝の相手はドイツで、2−0と、このロナウドの挙げた点でブラジルが優勝した。(水口)
23 ジネディーヌ・ジダン フランス 98, 02 ジネディーヌ・ジダンは、W杯に2度出場している。1度目は、司令塔として活躍した1998年である。彼を中心としたフランスはまとまりを見せ、理想的なサッカーを展開した。ベテランがチームをまとめ、ストライカーが得点を重ねていく試合ができた。チームを優勝に導いたのは、プラティニから「将軍」の称号を受け継いだジダンであった。2度目の出場は、日韓共同開催の2002年である。この年のジダンは、故障で出られない試合が続き、フランスはグループリーグ敗退となった。このことからジダンの存在の大きさが改めて認識された。(水口)
24 デヴィッド・ベッカム イングランド 98, 02 スペインのレアルマドリードに所属し、イングランド代表のキャプテンを務める、現在CM収入を含め年収35億円を得る世界的スターである。しかし、苦い過去があった。それは、1998年W杯フランス大会でのアルゼンチン戦。相手の挑発にのって報復をしてしまったベッカムは退場処分となり、イングランドは敗退した。ベッカムは「A級戦犯」となり新聞には「フィールドには10人の英雄と1人の馬鹿者がいた」とまで見出しをつけられ、英国全員を敵に回したも同然だった。
その後ベッカムは、4年後の日韓W杯で宿敵アルゼンチンに決勝PKを決めて、見事に借りを返した。その時のベッカムは、「プロになって、退場は2度しかない。でも、その1つでずっと苦しめられた。4年前のことを考えると信じられない気持ちだ。長い4年間だった。アップダウンの激しい4年間だった。しかしすべては終わったんだ。」と語った。現在も、彼の右足からくり出される高精度のクロスボールとFKは、世界に並ぶ者なしと言われる。
 (福田)
25 マイケル・オーウェン イングランド 98, 02 弱冠17歳でイングランドのプレミアリーグにデビューし得点王となったオーウェンは、「ワンダー・ボーイ」と呼ばれる。18歳でイングランド代表としてW杯に出場し、初ゴールを決めた。彼の武器はスピードを活かしたドリブルで、初ゴールも、50メートルをドリブルで突破して決めた。97年から2年連続でプレミアリーグの得点王となり、01年にはヨーロッパ年間最優秀選手に輝いた。05年夏、プレミアリーグのニューカッスルに移籍した。(山内)
26 中田 英寿 日本 98, 02 20歳で代表デビューすると、若手ながらもすぐに中心的存在となり、1998年の日本のW杯初出場の原動力となる。大会後、三浦知良に続く2人目のセリエAへの移籍を果たし、世界的な選手となった。日本人で初めて海外で成功したことにより、日本人の海外移籍という重い扉を開けることに成功した、日本サッカー界のパイオニアである。強靭なフィジカルと鋭いキラーパスで日本を世界の舞台へと導いた。 (松下)
27 ルイス・フィーゴ ポルトガル 98, 02 2002年のポルトガル代表。右サイドを得意とするが、状況に応じて左サイド、ストライカーにもなるという多用性をもっている。最大の武器は相手の逆を取る変幻自在のドリブルである。また、精度の高いクロスを出すことができるのも大きな武器である。ファンタジスタであるルイ・コスタと並び、ポルトガルを代表するドリブラーである。現在は、イタリア・セリエAのインテル・ミラノで活躍中である。(菊池)
28 オリバー・カーン ドイツ 94, 98, 02 ドイツが誇る世界最高GKである。1995,96年シーズンのUEFAカップで優勝し、2000,01年シーズンには、UEFAチャンピオンズリーグで優勝し、そのことにより世界最高のGKの座を不動のものにした。W杯では、94,98年は控えのメンバーだったが、2002年日韓W杯で初めて表舞台に出た。そして、W杯予選の全10試合とW杯全7試合をフル出場し、W杯では5試合を完封勝利した。 (佐伯)
29 リバウド ブラジル 98, 02 リバウドは、驚異的な威力と精度を誇る左足を持つ、世界最高峰の司令塔の一人である。1999年にはFIFA最優秀選手賞を受賞している。 彼は、ブラジルの栄光の背番号10を、1998年と2002年の二大会にわたって背負ってプレイした。2002年W杯では、ロナウド、ロナウジーニョとともに、5度目の優勝に貢献した。(高橋)
30 ロナウジーニョ ブラジル 02 ブラジル代表のキャプテンであるロナウジーニョは「小さなロナウド」という意味があり、代表に既にロナウドがいるので、この愛称で呼ばれている。現在世界最高のドリブラーの一人といわれ、試合中に見せる華麗なプレーは神業と呼ぶにふさわしい。また、パスも変幻自在の姿勢からくり出すことができ、観客を魅了する。おそらく、現在世界最高のファンタジスタだと言ってよい。したがって、ペレやジーコ、リバウドなど、その世代世代で一番上手く、奇跡を起こせる選手に継承されているブラジル代表の10番に必要な資質をすべて備えている。 (福田)