第21回モントリオール大会(1976年7月17日〜8月1日)

3億2000万ドルの当初大会予算が13億ドルにも膨れ上がる
 1976年の第21回大会は、カナダのモントリオール市で開催されることになった。この決定が下されたのは、その6年前の70年にアムステルダムで行われたIOC総会の時だ。モントリオールとモスクワが最後の決選に残った。当初、モスクワ側は絶対に勝つと予想していたため、当時のブランデージIOC会長が投票結果を発表する際に、「第1回目の投票はモスクワが1位・・・」と発表した途端、ソ連のタス通信は勝ったと思い込み「モスクワに決定!」とのフラッシュを世界中に流した。ブランデージがその後に「しかし、過半数に達していなかったので・・・」と付け加えたのを聞きもらしていたのだ。
 モントリオール市長は大会予算3億2000万ドルを用意し、準備も着々と進んでいた。しかし、73年に第4次中東戦争が起こると、OPEC(石油輸出国機構)は石油生産の削減と供給制限などをし、世界的にオイルショックの波が始まった。カナダ国内にもその波は押し寄せ、物価は高騰するばかりだった。当時の予算は何度も修正せざるを得ない状況だった、その度にカナダ国民の間からは非難の声が上がった。それに加えて、労働者のストライキがカナダ国内で頻発した。各競技会場の建設をしている労働者の場合も例外ではなかった。そのため競技会場の建設はストップされ、一時は開催地の変更を考えさせられるほどだった。何とかなりそうとの見込みが立ったのは、開幕の2、3ヶ月前のことにすぎない。もっとも開催にはこぎ着けたが、3億2000万ドルの当初予算は、最終的には13億ドルにふくれあがった。

国際的な政治問題の続発により参加国が激変
 競技施設のメドはついたものの、今度は国際的な政治問題がらみの難問が待ち構えていた。1つは台湾問題である。モントリオールが開催地に選ばれた直後に、カナダは中国と国交を開き、台湾とは国交を断った。そのためカナダ政府としては、台湾選手団の入国を許可するわけにはいかなくなった。このことは、「参加国は政治的な理由で差別されない」というIOCの理念とは反していた。IOC総会によって妥協策は出されたが、結局台湾は不参加となった。
 もう1つは、人種差別政策に反対するアフリカ諸国NOC(国内オリンピック委員会)のボイコット問題だ。アフリカ側は、「ニュージーランドは、人種差別政策をとっている南アフリカにラクビーチームを派遣し、交流している。そのニュージーランドが今大会に参加するならば、われわれはボイコットする」とした。しかし、ニュージーランドもIOCも、この抗議に動かされる気配はなかった。そこでアフリカ諸国のほとんどは、選手村から引き揚げることになった。開会式のわずか24時間前のことであった。116の国と地域のNOCがエントリーしていながら、このような問題によって92にまで減ってしまった。

日本選手の活躍(体操・レスリング・柔道など)
 日本の男子体操団体は、オリンピック5連覇に期待をかけた。しかし、エースの笠松がモントリオール入りした翌日に腹痛を訴え、急性虫垂炎と診断された。日本はエースなしで戦わなければならず、不安を抱きながらのスタートとなった。それでも体操王国日本は実力を発揮し、僅差ではあるが逆転でソ連を下し優勝した。女子体操では新しいヒロインが誕生した。ルーマニアの14歳の少女、ナディア・コマネチである。彼女は初日の段違い平行棒で10点満点を上げると、翌日の演技でも10点満点を連発した。コマネチは全部で7回10点満点を出し「白い妖精」といわれた。
 レスリングでは、グレコローマンとフリースタイル両方に各10人ずつの日本選手が出場したが、メダルは金が2個、銀が4個にとどまり、下降線にブレーキはかけたものの、上昇気流に乗せるには至らなかった。東京、ミュンヘン大会についで行われた柔道に、本家の日本はもちろんフルエントリーし、全階級制覇をねらった。しかし結局、金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル1個でこの大会を終えた。
 女子バレーでは、東洋の魔女が王座を奪回した。東京大会では金メダルに輝いたものの、その後のメキシコ、ミュンヘン両大会では強敵ソ連の壁を越えれなかった。しかし、今大会は決勝でそのソ連のスパイクを日本は「たい焼きレシーブ」で拾いまくり、ストレートでソ連を下して金メダルを奪回したのである。「戦う選手団」をモットーに掲げた日本選手団は健闘したが、メダルの数は金9個、銀6個、銅10個で、前回大会の金13個、銀6個、銅10個を若干下回った。(富 原)


第22回モスクワ大会(1980年7月19日〜8月3日)


 第22回大会の候補地は、最終的にモスクワ市とロサンゼルス市に絞られ、まさに米ソ2都市の一騎打ちとなった。モスクワは前回モントリオールに逆転され、悔しくも涙をのんだ。その時のショックは大きく、ソ連の国を挙げての巻き返しがその時から始まった。

 ソ連がオリンピックに初参加したのは、第15回ヘルシンキ大会の時で、それ以後は毎回大選手団を派遣し、優秀な成績を収めてきた。また、施設面でも当時のモスクワは、オリンピックを開催するに十分にくらい整っていた。このようにして、ソ連はオリンピック史上、初めて社会主義国で開催する栄誉を手にした。ソ連のプライドにかけけても大会を成功させるため、着々と準備が進められていった。何事もなければ、第22回大会は、すべての面で史上最高規模の、立派な大会になったに違いない。ところが現実には、大会前年の79年に、ソ連は突然アフガニスタンに侵攻したのだった。この事件によって、成功間違いなしと思われたモスクワ・オリンピックは、きわめて大きな影響を受けた。

 その少し前にテヘランのアメリカ大使館で人質事件が起こったが、当時の大統領、ジミー・カーターは有効な手を打つことができず、国民の不信を買っていた。しかも80年には大統領選挙を控えているため、カーターは信頼回復を狙い、必死だった。そんな時に、ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻を始めったのだ。カーターは、制裁措置としてアメリカ・オリンピック委員会に相談することもなく、一方的に「モスクワ・オリンピック、ボイコットの可能性もある」と発言した。これが直ちにニュースとなって、世界中に流された。その後、カーター大統領は「参加すべきではない」と再度意見表明すると同時に、友好国の日本、西ドイツ、イギリス、フランスなどにも圧力をかけ、同調を呼びかけた。

 呼びかけに対し日本は、アメリカやヨーロッパ、特にアジア諸国の動向を見極めた上で、国内の総会で決定するという意向を示した。一方IOC総会では、モスクワ問題について批判的な意見は出たものの、結局、満場一致で予定通りの開催を確認した。これに対し、注目のUSOC(アメリカ・オリンピック委員会)の総会では、正式にアメリカのモスクワ大会ボイコットが決められた。アメリカが不参加を決めたことにより、日本も不参加に向かうだろうと考えた日本選手強化担当のコーチや選手たちは、JOCへ要望書を出すことを決議した。

 日本選手たちの熱い想いが綴られた要望書は、JOCを参加に向けて前進させるかに思われた。しかし、アフガニスタンへのソ連の軍事介入は、明らかに平和と友好の精神に背くものであった。また、アジア、欧米、その他の諸国においても、不参加の動きが生じていた。日本政府の考えは、最初から参加に関して否定的であった。こうした政府の意向を汲んで、JOCは結局不参加を決定した。選手たちの願いは聞き入れられなかったのだ。5ヶ月間に及んだモスクワ問題は、まぎれもなく政治の介入によって決着をみたのだった。

 第22回モスクワ大会の開会式は、10万人の大観衆を集めて行われた。しかし、入場行進に参わった国と地域は81にとどまった。20ものアフリカ諸国・地域が不参加を決めた前回のモントリオール大会をさらに下回り、参加選手数も激減した。それほどまでに、ソ連のアフガニスタンへの侵入は世界に衝撃を与えたのだった。風当たりは、それほど強かったのである。ヨーロッパからは、参加したものの入場行進で国旗を掲げることは控える国もあった。ボイコットには応じなかったものの、介入には明白に抗議するという、苦肉の策の行動であった。モスクワ大会は、このような異常な幕開けとなった。

 大会中は、全体として各競技ともハイレベルな戦いにはなったが、アメリカ、西ドイツ、日本などの有力選手を欠いていたために、多くの場合、勝った選手を本当の意味で世界一と呼ぶことはできなかった。例えば体操では、モントリオールで活躍し、体操王国であった日本が参加しなかったため、ソ連勢がメダルを独占した。モスクワ大会では21競技204種目が実施されていたため、金メダルの数も204であった。そのうちソ連が80個、東ドイツが47個の金メダルを獲得し、2国で60%を占める「大活躍」ぶりを示した。もっとも、この偏り方自体が異常だった。

 オリンピックの本来の理念は、「人種・宗教・政治等の垣根を超え、国際交流の幅を拡げ、国際平和の建設に助力する」ということである。ところが第22回モスクワ大会では、世界を結びつけるべき当のオリンピックが、政治に利用され、世界を二つに分けてしまうという、残念な結果となったのである。(富 原)