オランダ史概説 1             → 2 → 3 → 4 → 5 → 6

第1章 カール5世の統治期まで(〜1555)

 ここでは、僕がこちらで勉強したことをもとに、日本ではあまり知られていないオランダの歴史を解説し ようと思う。
 しかし、まず「オランダ史」ということばからして問題になるだろう。というのは、この後説 明するように「ネーデルラント共和国」が国際的に認知されたのは1648年だが、それは現在のオランダの北 部だけを指すのだし、ベルギーの独立を承認し、現在使われている意味での「オランダ」ができたのは1839 年のことだが、これは不承不承認めたにすぎなかったからだ。できれば、オランダ語の話されている地域全 部をまとめたかったのだが、ベルギーの北部で今でもオランダ語が話されていることから分かるように、 一部は別の国になってしまったのである。ここでは、用語を次のように使うことを 最初にお断りしておく。
A オランダ:「連合王国」といわないで「イギリス」と言うように、特に対象を厳密に意識しないで慣用 的に表現する場合に用いる。
B 低地地方(またはネーデルラント):今日のオランダだけでなく、ベルギーやルクセンブルクを含む。
C フランドル:ベルギー北部のオランダ語地域を指す。

 さて、低地地方が歴史上脚光を浴びたのは「中世都市」としてである。ベルギーの歴史家アンリ・ピレン ヌがこの分野では非常に有名だ。日本では、都市と言えば人口が多く商工業の栄えている所とだけ捉えがち だが、この理解は十分ではない。都市というのは自治権をもつ存在だとまず考えなければ理解を誤る。だか ら自治権のあるなしにより、人口千人の都市もあれば、人口1万人の「非都市」(「田舎」という表現もおか しく、何と表現していいか分からないのでこうしておく)もあるわけだ。

 自治権とは何かと言えば、まずもってもめ事を自分たちで解決する裁判権が重要だ。封建時代の西欧 社会では、「領民」には自由がなかった。特に農民は「農奴」と呼ばれ、どこに住むか、農業以外の仕事を してもよいか等を選ぶことはできなかった。代々の土地を否応なしに耕すほかなかったのであり、こ れを専門用語で「土地緊縛(きんばく)」と呼んでいる。日本でも、江戸時代に百姓の子が侍になることは まずできなかったし、勝手に別の土地へ移ってしまうことも禁じられていたから、何となくイメージでき るかと思う。ここでの関係で言えば、彼らの間にもめ事が起 こった場合、それを裁くのは領主だったのであり、自分たち自身ではなかった。そして、領主のえこひいき により無実の者が有罪とされても文句を言うことはできなかったのだ(これを専門用語で「領主裁判権」と 言う)。まったく公平ではないし、ましてや自治などどこにも存在しない。ところがある地域が交易などで 栄えると、領主か、これよりもう少し上の親分(王様なり皇帝、日本で言えば、藩主ではなく将軍を考える と分かりやすい)が金づるとしてのその意義に目をつける。そして、一定額の税金を納め、さらに戦争の際 には戦費を負担する義務を果たせば、自分たちで治めてもよいことにした。これが(自治)都市である。

 日本で言えば鎌倉幕府が滅びる頃にあたる14世紀、フランドル地方は毛織物の加工などで栄えており、 多くの都市を生み出したのだ。なかでも中心的存在だったのは、普通は「ブリュージュ」とフランス語読み されているが、現地読みだと「ブルッヒェ(ちなみにこれは、ドイツ語だとBruecke のことであり、要する に<橋>の意味だ)」となる都市だった。しかしこの港町には、その後北海から砂がおし寄せたらしい。その ため港が浅くなってしまい使えなくなった。それで中心は、通常は英語読みで「アントワープ」とされて いる、現地読みでアントウェルペンに移った。北イタリアが、地中海貿易で稼いだお金で栄えてルネッサン スの花を咲かせ、また南ドイツはアウクスブルクのフッガー家が、ヨーロッパを南北に結ぶ要所という利 点を活かして大富豪になったことなどは世界史の授業でおなじみだろう。ブルッヒェは、ルネッサンス より少し前にもう栄えていたのであり、さらにアントウェルペンは、フィレンツェやアウクスブルクを継 いで、16世紀後半には西ヨーロッパで最大の経済的中心地になったのである。

 さて、この後の章でオランダがスペインから独立する様子を見る前に、そもそもなぜ、遠く離れ たスペインが支配者だったのかを説明する必要があるだろう。そのためには、カール5世という、16世紀 前半のヨーロッパで絶大な力をもった君主について説明する必要がある。彼こそ、英仏、ポルトガル、 そしてイタリアの一部を除けば残りの西欧はすべてその傘下に入るような大帝国を築き上げた人物だから である。

◆ブルゴーニュ公国
 まず、1477年にはフランスの東部の地域に「ブルゴーニュ公国」というものが存在したことを記憶 しておいてもらいたい。ブルゴーニュと言えば、ボジョレ・ヌーヴォーなどのワインで、さらに美食で有 名な地域だが、当時はフランスから独立していたのである(実際、この地域の人の心のどこかに は、フランスに「併合」されたのだという思いが今でもあるらしい)。そして、そのすぐ北に位 置する関係で、低地地方もこれに属していた。しかし、ブルゴーニュ公国のボスであるシャルルが戦死し てしまった(フランスからの独立性を強めるため強引に戦っていた最中の出来事らしいが、「突進公」と 呼ばれているので相当無鉄砲だったのだろう)。そのため、娘のマリアが継ぐのだが、力不足なので ハプスブルク家のマキシミリアンに嫁いで守ってもらうことにした。この結婚により、ブルゴーニュ公国 は消滅してハプスブルク家の家領になった。

◆スペイン統一
 さて次にスペインに目を移すと、同時期(1479年)にカスティリアのイサベラとアラゴンのフェル ナンドの「カトリック両王」が結婚したことで、今日のスペインの大もとが形成された。それまでは、 スペインも戦国時代の日本に似た群雄割拠状態だったのである。そして、この二人の跡取りである娘の ファナ(後に精神を患い英語の"fanatic"の語源となる)は、上に述べたマキシミリアンとマリアの 結婚から生まれた子フィリップ美男王に嫁いだ。そのため、広大な国として成立まもないスペインもまた ハプスブルク家の治める土地となった。

◆帝国完成
 話が長くなったが、このファナとフィリップ(ハンサムすぎて妻を狂わせたらしいが)の間に生ま れた子どもこそがカールなのである。彼は仏王フランソワ1世というライヴァルを退けて、ヨーロッパ統 一の父カール大帝の偉業を継ぐ神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれた。この際、上で登場したフッガー家が 巨額の根回し資金を提供したとされている。こうして、ハプスブルク家は政略結婚によって次々に領土を 拡大し、ついには英仏などを除けば残りのヨーロッパのほとんどを支配下に置くことに成功した。その時 の家長がカール5世なのである。重要なことは、彼が生まれも育ちもフランドル地方だったことである。 ところが、彼の跡取りフェリペ2世はスペインで生まれ育ち、陰気な気候のフランドル地方を嫌った。 さらに、カール5世も結局は譲歩せざるを得なかったプロテスタント勢力がこの低地地方に浸透したこと を敵視した。こうして、フェリペ2世と低地地方の、その後80年にもわたる戦争が始まるのである。

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*自分の頭の整理のために作成しています。当然誤りもあると予想されますので、お気づきになった方はお教えいただければ幸いです。