カフカが踊った(かもしれない)音楽 Klezmer (没原稿)

 きっと意外に思われるかもしれませんが、メジャー・リーグで流れる"Take me out to the Ball Game"(Albert von Tizler作)は、イディッシュ語の混ざった1908年の歌でした。かつては「シート・ミュージック」と呼ばれる楽譜が音楽流通の重要な働きを担い、ニューヨークのTin Pan Alleyがその中心的な発信源となっていました。このブロックに「ご注文の作曲承ります」の看板が掲げられるのが1885年、Irving Berlinが"Alexander's Ragtime Band"を1911年にヒットさせる、メディアとビジネスのシステムはすでに準備されていたのです。
 かれらの名前からもお分かりのように20世紀初頭のアメリカでは、ユダヤ系移民の少なからぬ子弟が音楽産業に携わりました。なんとか黒人のリズムを取り込もうとした当時の音楽からは、ユダヤ音楽の影響などまったくと言っていいほど聞き取れません。ただし移民の密集したLower East Sideなどでは東欧ユダヤ人の音楽Klezmerが相変わらず演奏されます。なかでもユダヤ教の儀式にKlezmerは絶対欠かせません。あのシャガールが繰り返し描いた結婚式で流れている音楽です。あるいはカフカも結婚式を挙げていたらKlezmerを踊ったかもしれません(接続法2式です)。
 たしかにKlezmerにはメイン・ストリームに浮上する可能性が皆無だったわけでありません。たとえばSpike JonesのCity Slickers(フランキー堺が日本でのその代理人)にいたMickey Katz(名前もふざけてますね)は、当時のヒット曲をことごとくKlezmerに翻案します。かくして"Home on the Range"は"Haim afen Range"に、"April in Portugal"は"Paisach in Portugal"になるしだい。ちょっとだけ"Mechaye War Chant"の歌詞を紹介しますと、"Land von Wasser, Blumen und Women"、"Nasse Wasse"(湿った水)と洒落を楽しんだあと、"Gefullte Fisch, Gehackte Rinder, Gehackte Hering"とコーシャ(ユダヤ料理)の連呼に"Gehackte Sus"をそっと紛れ込ませます。なにしろ"Sus"はヘブライ語で「馬」ですからその食欲には驚倒します。かれがKlezmerをユダヤ人以外にも認知させるために用いた笑いという武器は、ジャズのためにLouis Armstrongが滑稽な黒人というパブリック・イメージを演じた経緯ともオーヴァーラップします。ただしKatzを別とすればKlezmerはやはり閉ざされたユダヤ人コミュニティーの音楽でした。なにしろ同化世代にとってKlezmerなどは自己憎悪(Sander Gilmanを参照)の対象、わたしたちが民謡や演歌から受けるイメージに近いのです。
 あれほどダサイと嫌われたKlezmerがにわかに注目され始めるのが80年代でした。なんとお膳立てをしたのは作曲の教鞭をとっていたイタリア系移民Joe Maneri。かれが63年にKlezmerをジャズに取り入れたCDがあります。さらに教え子たちがKlezmer Conservatory Bandを80年代に結成。なぜならユダヤ系の住民が結婚式にKlezmerの楽団を呼ぼうにも、この複雑な音楽を演奏できる者はとんと見つからず、音楽学校の学生にそのおはちが回ってきたからです。このバンドから巣立ったのがバンドHasidic New WaveのFrank Londonであり、Katzを見事に再現したアフロアメリカンのDon Byronです。なお時同じくしてJohn Zorn率いるMasadaがKlezmerをフリー・ジャズ化します。かれはTzadikレーベルからKlezmer版のパンクやレゲエやキューバンなど、さまざまなミュージシャンのCDを60枚以上も出す勢いです。さらにUri Caineはマーラーとバッハを一部Klezmer化することを試み、日本ではベツニ・ナンモ・クレズマなるバンドまで出現します。
 ちょっと聴いてみようかと関心を抱いてくださった方に、イディッシュで「幸運」を意味するKlezmerの掛け声を、締めくくりにお贈りしましょう。Mazl Tov!

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