ベルリンで聴いた Inna Slavskaja のクレズマー・コンサート(掲載原稿)
(ドイツ語学文学振興会「ひろの」42号(2002年)所収予定)

 あまり今晩のコンサートは期待できそうにないな、というのがプログラムを見たときの第一印象でした。なぜならクレズマー(Klezmer)ならアメリカ発の斬新なものに親しんでいたからです。だけれど内容の説明を受けながらその歌を聴くうちに、ステージからの"Mazl tov!"(幸運)という掛け声に自分からも応えていました。かのじょはベルリンで伝統的なクレズマーを歌いつづけるInna Slavskajaです。
 さいしょにクレズマーに接したのはリヴァイバルからしばらくした10年前、おもにニューヨークのミュージシャンによるものでした。さらにクレズマーの勢いは止まるところを知らず、パンクやレゲエに仕立てたものもあれば、マーラーやバッハのクレズマー風アレンジまで出てくるほど。だから初老にさしかかったInna Slavskajaの名前をプログラムに見つけても、「いまさらなあ」というのが正直な気持ちでした。かのじょがハバロフスク近くのユダヤ人自治区出身!というのはビックリしましたが。
 かりにクレズマーという名前には馴染みがなくても、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の音楽と言えばお分かりでしょう。あのシャガールが描いた結婚式や葬儀には欠かせない東欧ユダヤ人の音楽です。たとえば「ドナ・ドナ」みたいな感傷ばかりではなく、猥雑さもたっぷりの聖俗が渾然一体となった音楽です。ただしシャガールの故郷ヴィテブスクが跡形もなく消滅したように、クレズマーもヨーロッパではほとんど聴かれなくなりました。かろうじてアメリカのユダヤ人コミュニティーのなかだけで息を保っていたのです。
 だとしたらクレズマー・リヴァイバルはなぜ起こったのでしょう。お膳立てをしたのはアメリカで作曲の先生をしていたイタリア系移民Joe Maneriでした。かれがクレズマーをジャズに取り入れた63年の録音も残っています。さらにその教え子たちが80年代にクレズマーのバンドを結成します。なにしろユダヤ系住民が結婚式にクレズマーの楽団を呼ぼうにも、当時はもうまともに演奏できるプロの多くが鬼籍に入っていたので、音楽学校の学生たちにお呼びがかかったというわけです。かれらの一部が80年代のリヴァイバルの立役者となります。
 およそユダヤ系の若者にとってクレズマーと言えば、それはもうダサイ音楽でしかなかったでしょう。だいたいの歌はイディッシュの歌詞ですから意味もきっと?だったはずです。かつてカフカはユダヤ人がイディッシュを嫌うのは自己憎悪に等しいと言いました。おなじことが同化世代のクレズマーへの姿勢に当てはまります。さすがに戦前から活動したMickey Katzは自己憎悪を照れ隠しでもするかのように、笑いをまぶすことでクレズマーをユダヤ人以外の聴衆にも認知させようとしました。あまり愉快とは言えない先祖の記憶のつきまとった歴史との折り合いは、だけれど同化世代にとっては気にはなるものの先送りをしたい宿題みたいなものです。だとしたらその世代は自分たちの歴史とは宙吊りになったかたちでしか付き合えないという意味で、そしてクレズマーを復活させたミュージシャンでさえそれとの断絶を経てきたという意味で、ともに歴史の古傷のような痛みを味わっているのかもしれません。
 かたやInna Slavskajaのほうはそれこそ場違いでもあるかのように、ベルリンのなかでそこだけポッカリと出現したユダヤ出し物専門のHackesches Hoftheaterで、だいたいは自分の記憶にしか残っていない歌を聴かせます。なかでも「お母さんから教わった遊びの歌だけれど、その遊びのほうはもう忘れてしまいました」と説明したあとの歌は、聴いていて実に楽しいものでしたが複雑な気にもなりました。さほどユダヤ人がいたとは思われない50人ほどの聴衆をまえに、Inna Slavskajaは十八番の"Dos is Jidish, s'is majn Shprach"を歌うことで、力強くかつ爽やかに自己主張しつつコンサートを終えました。
 たとえばクレズマーに革新をもたらした若手ミュージシャンとInna Slavskajaとでは、どちらのほうが歴史からの断絶感が大きいのか部外者のぼくには分かりません。かのじょの"Mazl tov!"という掛け声はしかしその場にいた聴衆だけでなく、アメリカの若手にも自分にも等しく向けられていたと今は思います。

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