第5回

●バフチン,M.M.(ミハイルミハエロヴィッチ)/著、望月 哲男+鈴木 淳一/訳『ドストエフスキーの詩学』 ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08190-9

 おおよそドストエフスキー以前の小説というのは、作者に全てを見通す神の視点のようなものがあって、この視点に基づいて登場人物を都合良く動かしてるにすぎない。このような小説ではしだがって、作者独りの独白(モノローグ)が聞こえるだけだ。だがドストエフスキーとなると作者が登場人物に加わって、延々とディスカッションをしている。なかでも『ボボーク』という作品は墓場から出てきた死者たちが、ああでもない・こうでもないと言い合っているだけの短編である。だけれど真理とは人間と人間とのあいだの対話そのものであって、独白的な真理など形容矛盾だとまでバフチンは断言している。かれ一流のマルキシズムである。
 これを例証するためにバフチンは古代ギリシャの笑いにまで遡っている。あるいはカーニバルの狂騒にドストエフスキーの言語の本質を見ている。
 なにも陰気な顰(しか)めっ面が哲学なのではなく、笑いのなかにも真理があることを、バフチンはちゃんと分からせてくれる。なんと勇気を与えてくれる思想なのか。あらゆる言葉と言葉のあいだから爽(さわ)やかな風がピューピュー流れている感じだ。
 かれは革命ロシアが産み出した最高の思想家である。だから例によってスターリン時代に流刑させられ、あまりに物資が乏しかったために膨大なゲーテ論文を、タバコを巻くのに使ってしまったという人物である。さいごには足を切断しながらもせっせと論文を書いていた。こういう化け物がときどき出てくるからロシアって面白いんだよね。

●鶴見 和子/著 コレクション 鶴見和子曼荼羅(8) 『歌の巻―「虹」から「回生」へ』藤原書店 ISBN:4894340828

 かつて長寿の最高記録を持ってた泉重千代さんは、記者から「重千代さんの好みの女性はどういう人ですか」とインタヴューされて答えた、「やっぱり歳上かな、フッフッフ!」。
 おそらく鶴見和子さんは現代日本でもっともチャーミングなオバアチャンだろう。かのじょは有名な社会学者だったが、脳卒中で倒れてからあとがまたスゴイ! わかいときにに親しんだ和歌が昏睡状態のあと迸(ほとばし)るように出てきたのだ。

  「そこに浮游(ゆう)す塵泥(ちりひじ)われは」

こういう達観はなかなか真似できるものじゃないが、かのじょはどうやら達観したわけでなさそうだ。
  記者「死者なんですか、鶴見さんは?」 鶴見さん「体の左半分は死んでる。生者と死者が体の中にすんでるの。私はね、生き生きと死んでる。そういう人なのよ」。かのじょは達観するにはほど遠いほど気が若いのである。
 ちょっと長いけど引用しちゃおう:
 「大乗仏教の曼陀羅図では、大日如来が真ん中にいる。土俗の神々を殺さなかったから、諸仏諸菩薩(ぼさつ)がいっぱい並んでて、それが宇宙の配置図だと。真ん中には、矛盾し反発し調和するすべてのものが出会って、また流れ出てくる萃点(すいてん)があり、それが大日如来だと。
 二十世紀の社会変動はね、戦争と革命によって引き起こされた。権力を倒して、違う者が権力の座につく。そして排除する。殺す、破壊する。破壊と殺しによる社会変動の世紀だった。
 じゃあ、何者も排除しない、殺さないで、どうやって社会を変動していくか。それがわかった。萃点移動、つまり配置換えによる社会変動だと。
 今まで真ん中にいた者に代わって、一番隅の、一番差別された者を真ん中に持ってくると、社会の配置図ががらりと変わる。日本だったら沖縄とか、私みたいな重度身体障害者が真ん中にきたらどうなるか。真ん中にいる人を排除せず、配置換えで無害にする」
 たとえ身体が不自由でも、考えるという点で若くあり続ける、鶴見さんを目の前にすれば、重千代さんも考えを改めるかな。おいおい、どんなに歳取ったって、おれより若い人いるじゃん、ってね。

●サイモン・ウィンチェスター/著、鈴木主税/訳 『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』早川書房 ISBN:4-15-208220-8

 これは外国語に関心のあるひとは必読の本だとおもう。さまざまな言語の代表的な辞書はそれだけで編集哲学があるんだけど、
フランス語の場合→アカデミー会員という一部エリートによる中央集権
ドイツ語の場合→グリム兄弟が二人でこつこつ築いた職人技(だから死ぬまでに完成しなかった! 涙!)
 だとすると英語の場合はどうだったか。ちょっとボクには意外なんだけど、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー、通称OED(松大図書館にあり!)は完全に民主的なやりかたで編集されていた。ある単語のもっとも古い用例が分からなかったとすると、あらかじめ名乗り出ていたヴォランティア会員に調査依頼が出され、世界各地から情報が寄せられるというシステムである。なんか英語というとすぐ帝国主義に結び付けられるけど、こういう側面もあったという事実は知っておいたほうがいい。さらに驚くべきことに、これらの常連会員には若いときに感染した梅毒による妄想のため、あやまって殺人を犯してしまい、最後には自分のペニスを切り落とした「博士」がいた。かれの日頃の苦労に報いようとお礼を言いに編集主任が訪れた先は、だから本人もビックリの精神病院だった・・・。
 きみらが日頃は引くのが面倒で無味乾燥してると思ってる辞書も、かなり人間臭い物語りがいっぱい詰まってるんだよ。

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