第1回

●山田風太郎/著 『戦中派不戦日記』 講談社 ISBN:4061836129

 たしかに戦争中の日本人の生活は悲惨だった。だけれど人間は悲惨なときどうなるか。この問いに答える記述が本書のなかにある。かれは医学部の学生だったので銭湯の悪夢のような汚さを克明に綴っている。曰く、夜7時以降の銭湯の細菌数、不純物は、道頓堀のどぶに匹敵する。曰く、衣服を入れる籠は恐るべきものである。去年の夏全都に猖獗をきわめた発疹チフスはこの銭湯の籠が媒介する虱だった。曰く、湯槽は垢で乳色にとろんとして、さし入れた足は水面を越えるともう見えない。立錐の余地なしというのが形容ではない満員ぶりである。かようなまでに汚い風呂場の描写は、ドストエフスキーが『死の家の記録』で書いたシベリアの流刑地に匹敵する! だが山田青年はかくも不潔極まりない湯船に浸かっている人たちがニタニタ笑っていることも見落とさない。たとえば帰省している最中にアパートが空襲で焼けてしまったときも友人一同は「みなげらげら笑い出す」。たとえば一夜にして廃墟になった東京を見て、電車のなかの人々は話している−−「つまり、何でも、運ですなあ。……」と、一人がいった。みんな肯いて、「何ともいえないさびしい微笑を浮かべた」。おそろくべき観察眼ではないか、人間は悲惨なときでさえ笑える! いや笑うことしかできないのだ!! なぜ山田青年はかくも透徹に周囲を見渡すことができたか。ここには寄る辺ない自分たちとおなじ青年がいる、と思うだけでも読む価値のある名著ではないか。

●キイス,ダニエル/著、堀内 静子/訳 『24人のビリー・ミリガン・上』 早川書房 ISBN:4151101047
●キイス,ダニエル/著、堀内 静子/訳 『24人のビリー・ミリガン・下』 早川書房 ISBN:4151101055
●キイス,ダニエル/著、堀内 静子/訳 『ビリー・ミリガンと23の棺・上』 早川書房 ISBN:4151101063
●キイス,ダニエル/著、堀内 静子/訳 『ビリー・ミリガンと23の棺・下』 早川書房 ISBN:4151101071

 きみたちも『羊たちの沈黙』や『らせん』なんかを映画で見てサイコパスに興味を持ったかも知れないが、このビリー・ミリガンの本も10年前からブームになった異常心理を扱っている。
 なにしろ驚かされるのはビリーが「二重人格」ならまだしも「24人」もの人格を持っている点である。かれの24(ビリー+23)の人格はいずれも性格が異なっていて、かろうじてビリーの心理を統合している「スポット」という中心に、かわるがわる別の人格が現れることで表情や声色だけでなく、なんと使用言語さえ違ってくるという有様なのである。かれ(と言ってもこの場合はもちろんビリーである)は窮地に立たされると、この状況にもっとも適した人格を呼び出して場面を打開する。たとえば有罪の判決を受けたビリーは病院に幽閉されてしまうのだが、かれは理系に強い人格を呼び出してコンピュータをマスターさせてしまう。これは退院後の社会復帰を助けるために貸与されものなのだが、かれがインターネットを通じて病院の都合の悪い情報にアクセスし、自分を退院させないなら病院の腐敗を暴露すると院長を脅して、まんまと脱出に成功する場面など文字どおり手に汗を握るところだろう。だったら自分もテストのたびに違う人格を呼び出して100点取りたいって言っているのはだれだい? ただし現代の社会はあまりにも複雑なのだから、わたしたちの人格は100ぐらいに分裂していたってオカシクない、という巻末の解説に妙に納得してしまっている自分が空恐ろしい。
 だけれど後編に当たる「ビリー・ミリガンと23の棺」を読んでいくうちに、あのいつもの「ちょっとヘンだぞ」が首をもたげて興醒めしはじめてきた。この後編ではビリーが幼少時に父親から受けた性的虐待から自分を守るために、23の人格を生み出していった経過が詳細に説明されている。さらには最後の章では「父との和解」を果たすことで23の人格も姿を消し、あらためてビリーも自分本来の人格を取り戻していくのだった・・・。なんだかどっかで聞いた話しだとは思わないかい、こういった収拾の付け方っていうのは!・・・・・・
 なあんだ西洋っていうのは2000年も変わってないのか、これじゃあギリシャ悲劇の『オイディプス王』の二番煎じじゃないか! だとしたら『オイディプス王』的な語りはなぜ繰り返されるのかを問うほうが面白いかも知れない。これを精神分析として定式化したのがフロイトのエディプス・コンプレックスだった。ごく簡単に言えば男児が無意識のうちに同性の父親を憎んで、母親の愛を得ようとする心理的な態度がそれである。
 だけれどエディプス・コンプレックスが繰り返し再生産されるのは、おそらくは「売れるからだ」というのがぼくなりに導き出した解答である。ちょっとみんなにも考えてほしい、この『オイディプス王』のような構造をもった話しが、きみたちの周りにもけっこう蔓延していないか。だれもが成長過程で一度は味わう親との葛藤は洋の東西を問わず時代を分かたず見られる普遍的な通過儀礼である。かくも単純な図式で相手に訴えるものこそ多くのひとの心を捉えるのでないか。わかりやすい例で言うと『スター・ウォーズ』と『レイダーズ 失われたアーク』などがその代表例で、さしずめスピルバーグなどはエディプス・コンプレックスをせっせと研究しているに違いない。だとしたらダニエル・キースもまたエディプス・コンプレックスの物語を一つ付け加えたと言えないだろうか。
 ちなみに本書はノンフィクションであることも言い添えておきたい。

●ディック,P.K.(フィリップK)/著、浅倉 久志/訳 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 早川書房 ISBN 4-15-010229-5

 だれもが自分は「人間である」と信じて疑ってない。だけれど自分が「人間である」となぜ分かるのか。きみは自分が「人間である」ことをどう証明するのか。さらに「人間である」ということはいったいなにを意味するか。かりにアンドロイドが人間に立ち向かってきたら殺してもいいか。かれらを「人間でない」という理由で差別していいか。
 この本はハリソン・フォード主演の映画『ブレード・ランナー』の元になった。たしかに映画のほうはCGを駆使したデッドピア(ユートピアの反対)を巧みに描いて観る者を唸らせる。かれが近未来アメリカの屋台でうどんを何度も食べるシーン、街頭の巨大スクリーンに映し出される「強力ヤカモト」の広告、ホーバークラフトと中国人の自転車の同居など、ハイテクとローテクがなんの脈絡もなく置かれるところなど、あまりにも現実を露骨に先取りしていて目が眩むだろう。ただし殺人を犯したアンドロイドを追う賞金稼ぎ「ブレード・ランナー」が、アンドロイドを識別する検査法は小説のほうがはるかに恐ろしい。ある種の心理に訴えかける質問を被験者に連続して行なう「フォークト=カンプフ検査法」である。「コックは客の目の前で大釜の中に生きたエビをほおりこんだ」「きみには坊やがいる。その子が、きみに蝶のコレクションと殺虫瓶を見せた」「このカバン、しゃれてるだろう? 赤ん坊の生皮なのさ」。これらに瞳孔と呼吸が何秒で反射するかを測定するのだが、アンドロイドはコンマ以下数桁の遅れがある。だけれど当の検査法では精神薄弱や痴呆性の「人間」は「人間でない」と判断される。かれらよりアンドロイドのほうが「人間的」なのである。
 だけれどアンドロイドはそもそもなぜ人間を殺すのか。かれらは自分が「人間かどうか」疑いはじめてパニックに陥っている。なぜならアンドロイドは製造過程で寿命が予め決められているからだ。かれらを作ったローゼン協会でことの真偽を確かめようとして、あるいは自分たちの「創造主」に復讐しようとして殺すのである。これらのアンドロイドを探し出して抹殺する賞金稼ぎがフォード演ずるデッカードこと「ブレード・ランナー」なのだ。
 ただしシナリオが以上のような展開だけだったら善と悪との戦いに終始する西部劇の二番煎じに過ぎない。おそらくデッカード自身がアンドロイドのレイチェルに恋してしまい、さらに日頃からアンドロイドを残酷に「処分」していることに懊悩して、アンドロイドたちのほうが「人間的」なのではないのか(たとえば映画ではアンドロイドがデッカードを最後には救うように、アンドロイドのほうが「人間的」である)、かれ自身がはたして「人間なのか」どうかを確かめるため、みずからを「フォークト=カンプフ検査法」にかける場面に、ディックの天才は凝縮されているとおもう。かくして人間とアンドロイドの差異はたちまち溶解してしまう。
 ちなみに一般基礎演習で本書を取り上げて冒頭の問いを学生に向けたところ解答者はなかった。きみは自分が「人間である」ことをどうして知っているのか。たとえ知っているとしてもそれをどう証明できるのか。
 なお今世紀後半のもっとも優れた作家ディックの作品としては以下のものも勧めたい(すべて図書館にある)。

  −流れよわが涙、と警官は言った [ハヤカワ文庫]
  早川書房 (1989.2)
  −暗闇のスキャナー [創元SF文庫]
  東京創元社 (1991.11)
  −ヴァリス [創元SF文庫](ヴァリス3部作1、「神の存在証明」が試みられる最高傑作)
  東京創元社 (1990.6)
  −聖なる侵入 [創元SF文庫](ヴァリス3部作2)
  東京創元社 (1990.12)
  −ティモシー・アーチャーの転生 [創元SF文庫](ヴァリス3部作3)
  東京創元社 (1997.2)
  −アルベマス [創元SF文庫](遺作)
  東京創元社 (1995.4)

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