Klick mal das Bild!


   だれも関心などないでしょうが・・・

ちょうどベルリンの壁の出来た年に、東京の下町で生まれる。
あとで社宅のあった池袋に引っ越した。

さらに2年生のときに引っ越した松戸をかわぎりに、幼児期・青年期を「千葉都民」として送る。あのころ松戸はまだ自然が残っていたので、セミやザリガニをとって遊びほうける。

ちかくに住んでいた画家のアトリエに中1から通いはじめる。このことで芸術ににわかに目覚める。なんと中学で高橋和巳を読むませたガキだった。

あまりに不真面目だったので受験に失敗し、1年間を駿台予備校生として過ごす。この時期は
1 授業をサボって神保町の古本屋に通う
2 あてもなく勉強することの不安もあったが、ぎゃくにどこにも帰属しないデラシネ(根無し草)の悦びを味わう
という点で大いに愉しんでいた。

なんとか1浪で大学に入るが授業よりも友達と議論して遊んでいた。あのころは友人の4畳半ほどの下宿に10人ぐらいで押し掛けて、みんなで飲みながら一晩中青臭い議論ばっかりしていた。

このころ先生のアルバイトをはじめる。

ちょっと身の程知らずのところがあって2年から独文を専攻する。
あれだけ予備校でやったから英語はもういい、きっとドイツ語が出来れば文学・芸術・哲学・教育学なんでも出来る、という欲張りな理由からだった。

さらに父親の転職を機会にアルバイトを本格化させる。このときに教員生活をしていくうえで決定的な体験をする。かなり長いけど防備録として残しておこう。
ある先生のピンチヒッターで急遽今まで授業したことのないクラスに行った。この塾ははっきり言って軍隊ばりの規律主義で、なにより学生を規律で縛るということをやっていた。なぜなら学力の低い生徒だろうとなんだろうと、数だけ集めて儲けることしか考えていなかったから。だから特殊学級の生徒もなかには入ってた。この塾では1クラス50人ぐらいの生徒がいても、かならず一人4-5回は当たるようにさせていた。だからボクもいつものようにアトランダムに生徒を当てていくと、なにをどう訊こうともまったく答えずにニコニコ笑っているだけの女の子(中2)がいた。この塾の規律で言うとかのじょにも答えさせねばならない。だけどとうとう最後まで答えようとはせずニコニコするだけ。まわりの生徒になぜこの子は答えないで笑っているんだ、と訊いてもかれらもポカンとしているだけ。
  あとで教員室に帰って教務主任に訊いて愕然とした。かのじょはボクの言うことを聞こうにも

   耳そのものが聞こえなかった

のだ。あの子のことを今でもときどき考える、あの子から受けた体験が自分の出発点だったんだって。かのじょは教師の言うことは聞こえなかったけど、だけどみんなのいる授業にはやっぱり来たかったんだろう。だってまわりの生徒が筆談で内容も教えてくれるし、なにしろ塾に自分の場所があったんだから。だったら耳の聞こえない生徒がいたっていいじゃないか、かえってそういう生徒がいたほうがいいじゃないか。なによりそういう生徒にボクは授業に来てほしいと思っている。なぜならボクが教えられないことをかのじょは教えてくれたし、これこそおたがいに学び合える場なんじゃないかと。
  ここで「耳が聞こえない」というのは比喩的な意味も含んでいる。だぶん松山大学には入学したところで残念ながら自分の専攻に興味がなくて、なんの授業を聞いても「聞こえない」学生もいるんじゃないだろうか。たぶん教員が学生にその専攻の面白さを伝えて、学生のほうもそれに面白く取り組めるのがベストだけど、最後まで関心のもてない学生だって大学にはいたっていいはずだし、なにも当の専攻が面白くなくても別のものを提供できればいいじゃないか、というのがボクの根本的な考えだ。
なぜか指導教授からヘルマン・ブロッホについて書いた卒論が面白いと褒められる。

これも無謀だが大学院に進学する(というよりも授業費ぐらい稼げたので、社会に出たくなかったというのが本音)。

だんだんアルバイトの英語講師が本格化してくる。ある時期は時給が1万5千円になる。だがこれと同時に予備校での英語教育に疑問も抱くようになる。なぜなら、
1 あたりまえだが予備校では志望校合格だけが学習目標だが、だんだんこれに飽き足らなくなってきた(わざわざ合格した学生がその後は英語をさらに学ぶとか、これを足がかりに次のステップに踏み出すことがほとんどなかった)
2 なんか毎年学生が変わるだけで自分が成長していってない気がしてきた

なんとかエリアス・カネッティの修士論文を提出するが博士課程への受験に二度失敗する。

このかんにドイツ語の非常勤をするようになる。なんと千葉の実家から勤務先の高尾まで、片道2時間半をかけて通勤し(6時前には家を出る)、45分の授業×5回をこなしたあとに、地元の予備校で90分の授業×2回という日があった。

おめでとう!、やっと博士課程に進学する。

ちょうど博士課程に進んだころに書いた、シュレーバーに関する論文が審査に落ちて、このあと長期にわたるスランプにおちいる。

このころ日本にいたままではドイツ語教員としてヤバイ、と痛感していくつか奨学金の試験を受けて、ミュンヒェンのゲーテに半年留学させてもらうが、これまで本ばかり読んでいたつけで、ドイツ人の言うことが半分も分からなかった。だけど喋りまくっているうちに、「おまえはドイツ語下手なのによく喋るな」と、言われるようになる(これは現在も続いている)。なんとスタンド・バーで酔っぱらってしまい、お店のおじさんと4時間もお喋りするという快挙をなしとげる。おじさんはクロアチア語で、ボクのほうは日本語で喋っていたのだ!

たまたま出会ったドイツ人の学生にフーベルト・フィヒテについて紹介され、このあと3年かかってやっと論文を書きあげる。なんとホモセクシュアルを扱った論文にもかかわらず、学会誌に掲載されるだけでなく学会の振興賞をもらう、という前代未聞のことをやってしまった。

こんな賞ももらっているのに専任が決まらずに、非常勤ばかりやっていることに、だんだん絶望してくる(週に13時間ぐらいやっていた)。

なんとか松山大学に採用されて現在にいたる。ちなみに正式の職についたのは37歳のときだ。だけど元気な学生と愉快な同僚に囲まれ楽しんでいる。
入り口に戻る